Home : 出さない手紙について
呼吸をとりもどすためのうた
五、小逃避

 金曜日は、ほっとできる日だった。運動部や、熱心に活動中の文化部は、次の土曜日も活動がある。でも、わたしは緊張感のない文化部に所属していた。だから土曜日には学校に行く必要がない。そんな安心感のある金曜日は好きな日だ。
 ときどきこんな自分が不登校になれば良い、と思う。
 自室でCDを聴きながら幸福感に浸っていると、それをぶち壊すような携帯電話の着信音が鳴り響いた。ベッドの上に放りっぱなしにしている携帯から、CDと同じアーティストの曲のサビが流れている。携帯のサブディスプレイには「ユウ」と表示されている。
「もしもし」
「リョクちゃん、明日、暇?」
「暇だけど」
「じゃあ、一緒にどっか行こ! いい?」
「いいよ」
 ユウからの電話は珍しかった。大体、必要なことは携帯のメールで済ませてしまうからだ。そのメールも、滅多に利用することがなかったので、電話は珍しい中の珍しいことだった。
「でも何でユウ、電話なんてかけてきたの」
「何となく、声聴きたくて」
「ふーん……」
「どこ行く?」
「どこでもいいんだけど。あ、大きい本屋に行きたい」
「本屋?」
「外出るの面倒臭いから、買ってない本がいっぱいあるの」
「んー。いいよ。リョクちゃん、休日は引きこもり生活?」
「そんなもんだよ。でも、明日は外に出るし」
「それがいい。健康的だから」
 それからわたしたちは、明日の待ち合わせ場所を駅に、時間を朝十時に決めて、電話を切った。ユウはわざわざ駅まで、車で送ってもらうらしい。未だにあの発言でわたしは後ろめたさを抱いていて、本当はユウとの会話は苦痛だった。
「外に出るのは健康的なんですかー?」
 ユウと話しているときは、苦痛であるが、彼女の明るい声を聴いていると、外に出たくなってくる。が、電話を切った直後に、葛藤が始まり、明日のことを考えると憂鬱になってくる。あまりユウとは一緒にいたくなかった。どうしてわたしは午前中から出かけようなどと提案してしまったのだろう。
 今さら考えても、どうしようもないので寝ることにした。

 案ずるより産むが易しというように、前日意味もなく不安に思っていたが、実際に駅前でユウに会うと、不安はなくなっていた。
「おはよ」
 ユウらしい優しい声色で、いつもと違うのは、制服ではないことくらいだった。フリルの付いたスカートが印象的だった。
「おはよう」
 ユウの姿に見とれていたわたしは、自分の服装を思い出した。クレーム品として安く買ったジーンズは、わたしに似合っているのだろうか。ユウと並んで歩いて、釣り合うだろうか。
「リョクちゃん可愛い」
 ジーンズ姿が可愛い? 多分お世辞だろうけど、ほっとした。
「ユウも可愛いよ」
「ありがとう。リョクちゃんは切符買った?」
「大丈夫、定期があるから」
 目的の大型本屋は電車に乗って三十分先の駅前にあった。高校はそこよりも遠い。
「そ。じゃあ、もうホームに行こうか」
「うん」
 ユウと一緒に歩きながら、わたしは自分が緊張しているのに気付いた。いつも同じ駅から電車に乗るのに、目的や状況が違うだけで、どきどきしてしまう。何か話そうにも、話題を頭から引き出すことができなくて、二人黙ったまま、既に停車している電車に乗り込んだ。
「結構人乗ってるね」
 ユウは電車に乗る機会が少ないせいか、電車の中の様子が珍しいようだった。
「土曜だからね……」
 わたしは空いている席をちらちらと探しながら、車両を移っていった。どこも人が座っていて、結局、一両目の長いシートに並んで座った。
「あのさあ、リョクちゃん」
「何?」
 わたしは思わず身構えた。ユウの声が少し沈んでいたので、何か良くないことや都合の悪いことを彼女が言い出すような気がしたからだ。ところが、ユウは黙って、自分のスカートの生地を、指で撫でていた。その細い指先の上の、青く塗られた爪が目に入った。
「あのさあ、リョクちゃん」
「だから、何?」
 ユウはこちらを見ようともしなかった。わたしも、彼女の顔は見ず、青い爪ばかり見ていた。
「リョクちゃん、この前言ったこと気にしてるみたいだけど、もう気にしなくてもいいからね」
「え?」
「ほら、狭山にそそのかされて、言っちゃったじゃない。わたしたちといても『楽しくない』って。あれ言ってから、リョクちゃん、元気なかったから」
 大きなアナウンスと、笛の音とともに、電車は動き始めた。わたしは車両の動く音に負けないように、少し大きな声で言った。
「ごめんね。すぐに謝りたかったんだけど、なかなか言い出せなくて」
「別にいいよ。だって、仕方ないよ」
「どういうこと?」
「誰だって、四六時中一緒にいて、終始楽しいわけないじゃない。そりゃ、リョクちゃんの言葉を聞いて、ちょっとつらかったけど。仕方ないよ」
 他人の「つらい」という言葉は、わたしを不安にさせる。当たり障りのない、互いに心地良い言葉ばかりを使っていると、ちょっとした否定的な言葉でひどく傷ついてしまう。中学の頃は、何かと感情をぶつけ合っていた。高校に入って、いつの間にか、否定的な言葉に対する抵抗がなくなってしまったようだ。
「ユウ」
「何?」
「もしかして、それを言いたくて、一緒にどっか行こうなんて、誘ったの?」
「そうだよ。そうじゃなきゃ、わたしが本屋へなんて、行くわけないじゃない」
「じゃあ、もっと遠くへ行こうか」
「え?」
「遠くだよ」
「でも、切符は……」
「また買えばいいし」
「そっか」
 ユウとわたしは黙り、右から左へ流れていく景色を窓から眺めていた。

「暑っ!」
 二時間近く電車に乗っていた。電車から降りた先では、ちょうど太陽が真上に昇っていた。
「ここ、どこなんだろ」
「隣の県だよ、ここ」
 わたしは一度、ここに来たことがあった。電車通学に慣れていなかった頃、寝過ごしてしまい、県外の終着駅まで来てしまったのだ。
「すごい山の中」
「平野が少ないからね。トンネルもやけに多かったでしょ」
「そういえば、そうだね。リョクちゃん、これからどうする?」
「とりあえず、駅を出ようか」
 二人で改札口まで行き、乗り越し料金を払った。本来の目的地までの料金の、五倍もした。わたしは遠くへ行こうと言った言い出しっぺだったが、流石に五倍の料金には驚いた。ユウは何のためらいもなく財布から紙幣を出していたので、わたしも落ち着いているふりだけはした。
 駅から出る際、帰りの電車の時刻をチェックしたら、県外への電車の本数の少なさに驚いた。
「ユウ、帰りの電車は二時間に一本だって」
「うわ。長くはいられないね。一本逃せば帰りも遅くなるし」
 すごいところに来たんだなあ、とユウは独り言のように言った。
 駅を出ると、駅前にはいくつか飲食店が並んでいて、前方には商店街の入り口がどん、と開いていた。ちょうど昼時なので、飲食店から何とは特定できないが、美味しそうなにおいが漂ってきている。
「お昼食べる?」
「リョクちゃん、お腹減ってるの?」
「まあまあ」
「じゃあ、食べよっか。ここ、何が美味しいんだろ?」
「蕎麦じゃない?」
「何で?」
「いや、何か、山間部って蕎麦が美味しそうなイメージがあるから」
 わたしたちは、日陰伝いに蕎麦屋をわざわざ探した。早々と「そば」と書かれた錆びた看板を見つけた。その錆び具合を見て、この店は美味しいのかどうか迷ったが、あまり汗をかきたくなかったので、この店で食べることにした。
 引き戸を開けて店に入ると、独特の蒸気のにおいがした。冷房の効いた空間を期待していたが、店内は扇風機が二台ほど、首を緩慢に回しながら動いているだけだった。会社の昼休み中に食べに来た感じの大人が席に着いていた。この店は地元向け、という感じだ。
「リョクちゃん、別のとこ行かない?」
 ユウも地元民だけの雰囲気に気兼ねしていた。でも、このような店の方が、かえって観光客向けの店よりも美味しいかもしれない。
「せっかく入ったんだし、食べようよ。ね、何にしようか」
 わたしはすっと、カウンターの上のメニューを見た。この店は蕎麦だけでなく、うどんもあるらしい。蕎麦屋は蕎麦だけだろう。そんなわたしの思いを裏切るように、ユウは「わたし、うどんにしようかな」と言った。
「え?」
「蕎麦よりうどんの方が好きだから」
 そこで、わたしは蕎麦を、ユウはうどんを頼んだ。
 注文している蕎麦とうどんができるまで、わたしたちはまた、いつもと違う話をした。ここは教室ではない空間のせいか、わたし自身もいつもと調子が違うようだった。
「リョクちゃん、狭山のこと、どう思う?」
「狭山?」
「そ、狭山」
「別に、どうってことないけど」
「狭山は、本当に神隠しに遭ったのかな」
「え?」
「だってさ、あんな子だよ? 人と上手に付き合っていられないのはあっちで何かあったんじゃない?」
「『あっち』って……」
「まあ、神様の国みたいなところで」
 ユウは嘲るようにふっと笑った。女の子はどうして人の陰口が好きなんだろう。これは学校でいても、蕎麦屋でいても変わらないようだ。わたしはどうも、後ろめたさを抱くから、なかなか口に出せない。
「ホントにリョクちゃんは何とも思ってないの? ここには狭山もいないんだから、正直に言ってもばれないよ」
「嫌いって言わせたいんでしょ」
「いや、そういうわけじゃないんだけど……」
「ユウはどうなの?」
「あたし?」
「そう、『あたし』はどうなのよ」
 ユウは少し黙って、何と言えばいいのか考えているようだった。ここには狭山もいなければ、思考を打ち切る友人もいないし、チャイムも鳴らなかった。ユウは青い爪でテーブルを撫でながら、好きなだけ黙っていた。わたしもじっと待っているのも居心地が悪いので、席を立って水を取りに行こうとした。
「どこ行くの?」
「水。セルフみたいだから」
「そう」
 何もおかしいことなどないのに、わたしたちは目を合わせて、微笑んだ。
 給水器のそばに積み上げられたグラスを二つ取って、冷たい水を適当に注ぎ入れた。手に冷たさが浸透している間、狭山のことを少し考えていた。なぜか、ここに二人でいることに、罪悪感を覚えた。陰口なんて、言うもんじゃない。
「はい」
「ありがとう」
 ユウはグラスを受け取ると、すぐに水を一口飲んだ。
「リョクちゃん、あのさ」
「何」
「わたし、狭山のこと、嫌いじゃないよ」
「じゃあ、何で……」
「合わせられないんだよ、あの子に。どうしてかな。わたし、自分で言うのも何だけど、どんな人とでもある程度は仲良くできるんだよ。でも、狭山は駄目なの。どんなに仲良くしようとしても、それを跳ね返されちゃう感じで」
 わたしも、水を一口飲んだ。注文したものはただゆでるだけのはずなのに、少し遅い気がした。
「狭山といると、調子狂う。仲良くしようと努力してるのに、あの子はそれを簡単に潰しちゃう」
「それ、狭山に直接言った方がいいんじゃない?」
「きっと無駄だよ。本人が自覚しなきゃ意味無いじゃない」
 何となく、無駄だと言うのはただの言い訳で、本当は、狭山に言う勇気がないのだと思った。
「だからわたし、狭山とはできるだけ距離を開けて、楽に過ごしたいんだ。今さら離れられないけど、距離を開けることならできるし」
「距離を開けるって?」
「当たり障りのない付き合いをするの」
 思わず、今でも十分やってるのに、と言いそうになった。
「お蕎麦とうどんです。えーと、どっちが蕎麦かな」
 店のおばさんが盆の上に蕎麦とうどんを載せて持ってきた。
「わたしが蕎麦です」
「わたしはうどん」
 おばさんは慣れた手つきで箸を並べ、それぞれの注文の物を置いた。そして、おばさんが去ってから「やっと来たね」とわたしは言った。さっそく箸を割って一すすり口に運んだ。
「おいしい!」
 ユウが開口一番に言った。
「リョクちゃんのはどう?」
「まあ、普通の蕎麦かな」
 別に、まずくはなかったが、特別美味しいものでもなかった。だからユウがおいしいと言ったうどんの方が気になった。
「ユウ、一口もらってもいい?」
「じゃあ、交換しよ」
 交換して食べてみたら、うどんと蕎麦の出汁は同じものだということがわかっただけだった。うどんも、別にまずいものではなかったが、特別美味しいものでもなかった。
「蕎麦もおいしいよ。お腹が減ってると、尚更おいしいよね」
 ユウが喜んでいるなら別にいいか、と思い、わたしも同意した。
 観光客向けの店ではない、という予想は当たっていたようで、蕎麦の値段は高くはなかった。味相応、という感じか。
 昼食を食べ終え、帰りの電車までもう少し時間があるので、商店街を二人でうろついた。商店街は薄暗く、有線も流れていなかった。店は開いているところよりも、閉店の方が多くて、このような状態は、田舎ならどこも同じなのだ、と思った。
「時間が止まってるみたい」
 ユウはふりふりのスカートでちょこちょこと歩きながら、控えめに言った。
「やばいね」
 わたしも失礼だ、と思いながらも、ぽつりと言ってしまった。
「ねえ、ユウ。さっきの話の続きだけど」
「さっきの話?」
「うん」
 わたしは、蕎麦を食べているときも、その直前の会話について考えていた。狭山のことが苦手なのは仕方がない。本人がどうにかしようと思っていないのだから、わたしが何かする必要もない気がする。でも、わたしには気になることがあった。
「わたしのことは、どう思ってるの?」
「嫌いじゃないよ」
「じゃあ、好きでもないの?」
「そんなことないよ」
 自分で言ったのに、不安感がじわじわと胸のあたりに迫ってきていた。
「リョクちゃんは遠慮気味なんだよ」
「え?」
「こっちから寄って行ってるのに、いつも一歩以上離れてるような、そんな感じ。リョクちゃんも、距離開けてるでしょ。そのくせ、本当の気持ちを隠すのが苦手っぽいし。ときどき、リョクちゃんは笑っていても、心から笑ってないな、というのがよく分かる」
 具体的ではなかったが、わたしには十分だった。
「ユウ。わたし、いつもみんなと離れてるなって思ってたんだよ。わたしの方から離れてたのかな」
「リョクちゃんが逃げなきゃ、いくらでも近寄れるんだよ。そりゃ、わたしだって遠慮はいくらかするけどね。でも、リョクちゃんは限度を超えて離れてる、と言うか、友達圏内ぎりぎりの上でいるような。リョクちゃんは、楽しいことはいくらでも言うけど、悩みや心配事は一切言わないでしょ」
「うん」
「わたし、リョクちゃんが悩んでるのは分かるよ」
 わたしは、ユウは左腕の傷跡について知っているのか心配になった。わたしは、自分で自分を傷つける行為について悩んでいた。自分の行為は異常だと思っていたから、止めたいし、本当は誰かに助けてほしかった。でも、自分の悩みを言って、友人に変人扱いされるのも、心配して腫れ物を触るような扱いも受けたくなかった。それをユウは知っていたのだろうか。
「具体的には、リョクちゃんは言ってくれないから分からないけど。でも、見ていれば分かるんだよ。だから、こっちはこっちで、どうして悩んでるのか相談してほしいのに、リョクちゃんはそういうこと言おうとしないし」
「ユウ、ごめん」
「別に謝らなくてもいいよ」
「今まで、当たり障りのない付き合い方しかできなかったの。急に自分の気持ちとか、考えてることを人に話すのは抵抗があるけど、努力するから」
「努力しなくてもいいんだよ。わたしはリョクちゃんの話なら聞くし、聞いても嫌いにならないから」
「ありがとう」
 結局、自分自身の悩みを話せなかった。でも、彼女は聞いてくれるということが、とても嬉しかった。今までもやもやとした重いものが、いくらか軽くなった。
 わたしは泣きそうだったので、しばらく黙って商店街を歩いていた。結局、商店街の端から端まで歩いたものの、特に興味を引くような店はなかった。だから何も買わなかった。

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