Home : 出さない手紙について
呼吸をとりもどすためのうた
四、本音と建て前

 体育の授業の前、更衣室でもぞもぞと左腕を隠しながら着替えた。隠さなくても、誰もわたしの左腕に興味は持たないと思う。でも、自意識過剰だと自覚するほど、人のちょっとした自分への視線に怯えていた。左腕の傷跡を見られたくなかった。
「リョクちゃん、早く。チャイムが鳴るよ」
 既に着替え終わったユウはわたしの左隣にいる。腕の内側にある傷跡を見られる位置ではないなと安心して、「ごめん」と答えた。慌ててシューズをひっつかんで、体育館までユウと狭山の三人で走っていった。
「リョクちゃん、いつもよりハイだったね」
 昼食中に、ユウがバレーの感想を述べた。狭山も笑って、「何かね、楽しいことがあったみたいに見えた」と言った。
「そうかな。別に、わたしは何もなかったんだけど」
「痛々しいくらい元気だったよ」
「寝不足だからね。だからかえってハイなのかも」
 わたしが自嘲気味に笑ったら、ユウは心配そうな顔をした。
「本当。目の下黒いよ。早く寝なきゃ」
「それが、寝れないんだよ……。人生行き詰まってるからさぁ」
「不眠症?」
「んー、そんなもんなのかな。でも、授業中は眠くてうとうとするし」
「夜行性?」
「いやいや、普通に昼行性、昼行性」
 またわたしは笑った。自分の言っていることなのに、本心とは違った自分の明るい声が不快だった。わたしとユウの会話の間、狭山は黙って弁当を食べていた。三人のうち、二人が話せば、一人が黙る。それは、三人という奇数だからいけないのか、それともこの三人だからこそ起こってしまう現象なのだろうか。
「別にリョクちゃんだけが特別なわけじゃないんだよね」
 とうとう狭山が口を挟んだ。わたしは無意識に、ユウの顔色を見ていた。ユウはわずかに顔をしかめたが、すぐに戻った。
「そうだね。狭山もしょっちゅう寝不足で虚ろな顔してるよね。大丈夫?」
「まあね。ユウちゃんはいいよね、元気で」
 今度はわたしが黙ったまま、何も言えなくなった。その場しのぎのために、ペットボトルから緑茶を飲んだ。
「わたしだって、いつも元気なわけじゃないよ……」
「そりゃそうでしょ」
「じゃあ何で、そんなこと言うの」
「何となく、何となくそう思ったの」
「それはおかしいんじゃない?」
「わたしは思ったことを率直に言っただけだよ」
「何でも言えばいいわけじゃないでしょ」
 ああ。わたしが何か言わなきゃいけない。何か言って、二人を黙らせなきゃ、何か悪いことが起こりそうな気がする。
「ねえ、リョクちゃんはどう思う?」
 内心、どきどきしていたときに、突然ユウに振られて、途中まで練っていた言葉が散ってしまった。
「何を?」
「何でも率直に言ってもいいかってこと」
 ユウの繕っていた顔は崩れていた。人と上手に接することのできるユウでも、狭山と接するのは難しいのだろうか。
「そりゃ、何でもいいわけじゃないでしょう。狭山も、もうちょっと気をつけなきゃ、楽しくできないよ」
「楽しくすることが大事なの?」
 狭山は怒っているわけでも、笑っているわけでもなかった。表情が乏しく、そこからは感情をうかがえなかった。わたしは、みんなが言いそうな、正しそうなことを無理矢理言った。
「楽しくなきゃ、やってられないよ。いちいち人と言い争ってばかりだと、疲れるじゃない。だから、思ったことをそのまま言って、相手は嫌な思いをしないかな、とか、考えるべきでしょ」
「ユウちゃんやリョクちゃんは考えてるの?」
「考えてるよ」
「じゃあ、何でわたしは楽しくないの?」
 わたしは返答に困った。何も深く考えられなかった。
「わたしも楽しくないよ。でも……」
 「でも」、一人は恐いから、人に嫌われるのは嫌だから、一緒にいる。
 つい、「思ったことをそのまま言って」しまった。狭山は、ほら、そんなものだ、というような、勝ち誇った表情をしていた。ユウは、悲しそうな顔をした。
「じゃあ、何で一緒にいるの」
 それは、わたしが一人で何度も考えていた疑問だった。ユウから同じ質問が出るなんて、今まで通り当たり障りのない付き合いをしていたなら、ないはずだった。この疑問には、いつも同じ答えが出ている。
「友達だから」
「友達ね……」
 狭山は弁当を片づけながら、鼻で笑っていた。
「トイレ行こっか」
 ユウは食べかけの弁当にふたをして、わたしの方も狭山の方も見ないで言った。
「うん、行こう」
 わたしも、気まずくてユウの顔を見られなかった。それでも、三人一緒にトイレへ行く。……友達だから。
 ユウと狭山の前で、あんなことを言ってしまった。ユウの悲しそうな顔と、狭山の勝ち誇ったような顔。両方とも、わたしにはきついものだった。言わなければ良かったと、言った直後から今まで、ずっと引きずっている。あの言葉は本心だったから、思わず言わせた狭山のことを恨めなかった。
 他人の前にいる自分と、たった一人でいるときの自分にギャップがあるのは仕方のないことだと思う。自分を見つめるのが他者であるか、自分自身であるかの違いは大きいことだ。もしも、両方の場合に同じ自分でいられるとしたら、他人にどう思われようが構わない、と投げやりになっているからだと思う。
 それはわたしの考えだ。頭ではそう思っているのに、実際のわたしは自分自身のギャップに戸惑い、嫌悪している。

 言ってしまってから、一日経てば何事もなかったかのように、ユウは接してくれる。狭山も同じだ。今日は今日、昨日は昨日、と割り切っているようだった。二人がフォローしてくれても、わたしの中では、今日は昨日の続きだった。耐えられなかった。
 家に帰ると、学校でへらへら笑ってるときには感じない怠さが、足下から頭の方へゆっくりと這い昇ってくる。扇風機の前で紺のスカートを広げながら、今日の自分の行動を振り返っていた。今日はミスをしなかっただろうか。朝から夕方までの簡単なダイジェストを頭の中で再生する。大丈夫、今日は何もなかったみたい。
「あんた、そんなだらしない格好して」
 夕食の用意を一段落終えた母が、居間に入ってきた。母の入場とともに、反省会は強制終了される。
「母さん、疲れた」
「そりゃ、誰だって疲れるわよ。母さんも疲れた」
 そう言われると、わたしは何も言えなくなる。誰だって疲れるのは当たり前。でも、わたしは学校に行って疲れて、母は家事をして疲れるんだ。
「じゃあ、母さんがわたしと代わってよ。わたしが晩ご飯作るから、学校行って勉強して、受験してきてよ」
「何馬鹿なこと言ってんの」
「馬鹿だから馬鹿なこと言ってんだよ」
 身近な、血の繋がった親にさえ、自分の本心を言えない。気付けば、加工された自分が親と向き合っている。本当は心の中で嵐のように荒れている気持ちをぶつけたいのに、勇気がなくて言えない。言った後のことが想像できなかった。
「疲れた……」
 母とこれ以上話したくなかった。逃げるためにシャワーを浴びに行った。
 でも、わたしがぶつけたい本心とは、何なのだろう。

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