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呼吸をとりもどすためのうた
三、多重構造

 家に帰ると、動けなくなってしまう。今年の夏は去年よりも暑く、大量のエネルギーを消費する。きっと体力と気力が汗に混ざって、皮膚から吹き出してしまうのだ。でも、動けなくなるのはそれだけが理由ではないと思う。わたしは基本的に人付き合いが苦手だ。ある程度、表面的な付き合いができても、非常に疲れる。特に、ユウと狭山と一緒にいると、更に疲れる。
「中学にかえりたいわぁ……」
 居間で首を回していた扇風機を固定して、制服のままじっと扇風機の前に座っていた。夕方のテレビドラマの再放送は、面倒臭くて観られなかった。一応落ち着き、シャワーを浴びるために立ち上がったら、頭痛がした。鈍く深い痛みがゆっくりと、波のように繰り返しどこからともなく押し寄せてくる。よろよろと薬箱から白い鎮痛剤を二錠取り出して、風呂場に向かった。熱中症の症状に鎮痛剤が効くかどうか知らないが、痛いものは痛いのだ。
 洗面台で薬を飲み、ぬるいシャワーを浴びた。
 中学の頃に戻りたい。別に中学の頃が良かったわけではない。でも、動けなくなるほど疲れたことはなかった。どうしてこんな頭痛まで起こして、高校に通わなければいけないのか分からない。彼女たちと一緒にいなければ、まだ楽かもしれない。
 風呂場やトイレ、自分の部屋など、一人でいる空間では、物思いに耽ってしまうのはなぜだろう。一人で誰にも邪魔をされなければ、わたしは哲学者並に人生について考えてしまう。でも、彼女たちのことを考えるのはよそうと思った。
「姑息な方法で……」
 急に、国語の先生が授業中に生徒たちに「姑息」という言葉の意味について注意していたのを思い出した。わたしは「姑息」とは「卑怯な」という意味としてとっていたが、実際は「その場逃れの」という意味だった。ちょっと賢くなった気がしていたが、今思うと、それは本当に正しいのかどうか分からない。辞書に載っていない意味が正しいときだって有りうるはずだ。十人にきいて、十人が間違えた意味で認識しているなら、その時点で、間違いも正解になる。辞書に載っているかどうかではなく、慣用であるかどうかが問題なのだ。
「数の多い方が正解なんだろう……」
 自分の考えが一つ生まれた。それに満足して、蛇口を締めた。
 頭痛も大分おさまってきた。汗を流してさっぱりすると、急に心がしんと静かになってしまう。
 わたしは両方の意味で、「姑息」な方法で人付き合いをしている。なんとかしたくても、やめたくても、あの、高校という空間から抜け出さない限り、それは無理だ。静かになった心に、一点の黒い染みが広がっていく。
 たった一人でいると、どうしてこんなに考え込んで、泣きたくなるのだろう。

 夜、眠れなくなることも度々あった。学校から帰ってすっかり疲れ、頭痛を起こし、おまけに入眠障害だなんて、これが高校生だろうか。入眠障害というのは大袈裟な表現で、ただちょっと、思うように眠れないだけだ。それでも、以前とは違う自分の変化が恐ろしい。
 今夜も、体はすっかり疲れているのに、眠れなかった。枕に頭を押しつけ、柔らかいタオルケットを被って、眠りに落ちる瞬間を待っていた。ところが、寝ようと思えば思うほど、目も頭も冴える。わたしは焦る。せめて、空が白む前までには眠ってしまいたい。明日も学校があるんだ。寝なきゃ動けなくなる。眠れ眠れ眠れ。呪文のように何度も頭の中で反芻しても、無駄だった。
 仕方がないので、蛍光灯を点け、急に明るくなった空間で目を慣らした。とりあえず、頭の疲れることをして眠ろう。
 小説を読もうか――細かい文字を読む気力なんてない。では、漫画を読もうか――本棚の奥にあって、取り出すのが面倒。それじゃあパソコンの電源を入れようか――椅子に座るのは疲れる。
 色々考えて、最後に残ったのはカッターナイフだった。
 わたしの行為を、異常だと見なして、認めない人は多い。
 ホームセンターで購入した切れ味の良い、カッターの替え刃を一枚取り出した。百円均一で売っているような刃と違い、色は黒く、防錆の油で表面は虹色に光っている。表面の油をティッシュで拭うと、刃先を左肘の内側に当てた。そして、右手に軽く力を込めて、すっと刃を引いた。柔らかな痛みとは関係なく、赤黒い血がぷくぷくと傷口から浮き出てきた。血の雫が少し大きめのビーズのように膨らんだ頃、新しいティッシュを取り出し、拭った。
 それを何度も何度も繰り返す。細い傷の集まりの、五センチほどの帯がわたしの腕に刻まれた。これ以上傷の帯が増えたら、人に見つかるだろう。切る面積を広げたくはないので、傷の上に傷を作っていく。
 赤いティッシュを隠滅しようと、紙にくるんでゴミ箱に捨てようとしたとき、自分のミスに気付いた。明日は体育の授業があったのだ。着替えの時、この汚い傷跡を友達に見られてしまうかもしれない。でももう、いい具合に眠たくなっている。明日は明日で何とかしよう。どうでもいい。どうにかなる。
 自分で自分の手首を傷つけるのをリストカット、腕を傷つけるのをアームカットと呼ぶ人がいる。それでは、足首はアンクルカットと呼ばないのだろうか。それはどうでもいい。ただわたしは、そのようなカタカナのファッションめいた呼び方は好きではなかった。
 わたしは自分の心を静かにさせたいし、眠りたいから切るだけだ。これで死ねるとは思えないし、死ぬつもりも全くなかった。また、誰かに知られて、心配させるのも嫌だった。
 でも、誰にも知られずに、一人静かに自分の腕を切っているのを時間を置いて客観視すると気分が悪くなる。自分の腕を切っているときは、感情がフラットになっている。思い出せば怖いと感じるくらい冷静に、血の出る腕を観察し、処理している。
 本当は、この行為をやめてしまいたかった。

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