Home : 出さない手紙について
呼吸をとりもどすためのうた
六、蘇生措置

 二人で電車で遠くへ行って以来、以前よりも仲良くなった気がする。以前の孤独感の反動かもしれないが、心が繋がったような気さえするのだ。それだけ、ユウとの距離が縮まれば、狭山との距離が開きがちになっていた。しかし、夏休みはもうすぐそこなので、あと数日乗り越えれば、この微妙な三人組からはしばらくエスケープできる。
「夏休みに泊まりに来ない?」
 この言葉は、意外にも弁当を食べ終わった狭山から出てきた。ユウは適当なことを言って断っていた。わたしも、断ろうと思った。
「ごめん、学校のきまりで外泊できないから……」
「何言ってんの。規則守ってる奴がどこにいるのよ」
「そりゃそうだけど」
「ちょうどね、七月の末にうちの母さん旅行に行くから、家に誰もいないの。だから、暇だし、寂しいから来てほしいなあって」
 わたしは唸りながら弁当箱を片づけていた。上手い断り方が思いつかなかった。このままだと、狭山の言いなりになるだろう。
「あー、狭山の家は、お父さんはいないの?」
 上手い断り方が出てこない代わりに、余計なことをきいてしまった。ユウもこの話題には興味があるのか、弁当箱からわたしたちに視線をずらした。
「うん。いないよ。別れた」
「そうなの」
 ここ最近、いっそう狭山に話しかけなくなったユウが、珍しく相づちを打った。
「別に珍しいもんじゃないよ。隠すことでもないしね」
 狭山のあっけらかんとした口調から、確かにそんな気がした。
「クラスの人の家族構成なんて、普通知らないよね」
 ユウにも狭山にも同意してほしいことではなかったが、つい、口から出てしまった。独り言に近かった。
「まあね。小、中学校の時は、地域密着型だったから家庭事情なんて本人に聞かなくてもわかってたよ。高校入ると、聞くまでわかんない。別にいいんだけど」
 狭山の言う事なんて、分かっていたけれど、思っていることは言った者勝ちなのだろう。わたしも彼女の意見に同意する。そうだ、これも中学と高校の違いなのだ。
「聞いてくれればさ、わたしのしょうもない家のことだって、話すんだけど、聞かないから。誰も」
 わたしは何か、言いたかったが、何も言えなかった。ユウはもう、狭山の話に興味をなくしたのか、また残りの弁当を食べはじめていた。
「で、結局ユウちゃんは泊まりに来てくれるんだよね」
 狭山は忘れていないようだった。わたしは狭山から目を逸らし、悩んだふりをした。悩む前に、もう答えは出ていた。
「いいよ」
「やった!」
 わたしも、狭山のことは嫌いじゃなかった。この機会に、彼女のことをもっと知ってみたいと思った。でも、約束すると、ユウの時と同じように、非常に憂鬱になってしまう。お泊まりの用意のことや、狭山の家がどうなっているのかを考えるだけで、心配になってしまうのだ。

 夏休み前、わたしは狭山に、「神隠し」について尋ねてみた。ちょうどそのとき、ユウは委員会で昼休みに生徒会室まで行っていた。教室に弁当の臭いと熱気がこもっているので、廊下の窓際に逃げ出して、二人でひっそりと喋っていた。
「狭山が神隠しに遭ったっていう話、本当?」
「誰から聞いたの?」
 狭山は軽く眉をひそめてわたしを見た。
「有名な噂だよ」
 それは本当だった。たぶん、ほとんどの人が、狭山のことを知らなくても、神隠し遭遇経験有りの変人がいる、と言う噂で狭山が神隠しに遭ったことを知っている。
「そう。ここでも誰かが勝手に言うんだ。まあ、小中高と同じ奴もいるからね……」
「狭山が嫌じゃなかったら、教えてほしいな」
 狭山はくるっと向きを変え、窓の外を見た。
「わたし、変人に見える? 普通の子でしょ? ただ、興味本位で知りたいだけなんでしょ」
 図星だった。興味本位以外に、わたしには理由がなかった。何となく、知りたいから本人に聞くということがまるで悪いことのような、そんな口調で狭山は言った。
「何でわたしが、リョクちゃんに言わなきゃいけないの」
「ごめん。嫌ならいいよ、言わなくても」
「みんな聞くのよ。信じもしないくせに」
 わたしは黙って、狭山と一緒に窓の外を見ていた。北側の窓から、涼しい風が吹き込んできた。校庭では女生徒が走り回っている。狭山がステンレスの手すりにもたれ、「もう、うんざりー」とやる気なさげに言った。
「何がうんざりなの?」
 この質問は、興味本位ではなく、何となく、無言を壊したいために、その場をもたせるために、無理に出したものだった。
「ぜーんぶ」
「全部?」
「そう。ぜーんぶ。学校も、家も、人も、みんな面倒になってきた」
「『なってきた』って、狭山は最初から面倒なんじゃない?」
「それはリョクちゃんの方だって。わたしも多少生活していくためのやる気はあったんだけどね、何か、こう、急に力がずるっと抜け落ちた、と言うか。何でかなぁ」
「ずるっと……」
「気付いたら、毎日が雨の日状態。何をするにしても面倒なんだよ」
 狭山はさらに手すりに体重を乗せた。
「充電したいなあ!」
 わたしも、「充電」したかった。早めに夏休みが来てほしい。予鈴のチャイムが鳴った。
「リョクちゃん、お泊まり、忘れないでね。来週だから」
「うん」
「ひとりぼっちは寂しいんだからね」
 狭山は伸びをして、一人先に教室に入っていった。
 何もかも面倒になっても、ひとりぼっちは寂しい。それはベクトルの違う話だから、矛盾していないように思えた。わたしは、まだ校庭で駆け回っている女生徒たちを見ながら、溜息をついた。

 あれほど待ち遠しかった夏休みだが、さっそくだらだらと潰していた。クーラーの効いた部屋で、今まで買い溜めていた本を狂ったように読んでいた。そんなふうに過ごしていたら、すぐに狭山の家へ泊まりに行く日が来てしまった。
「母さん、お金貸して」
 準備をしようと思ったが、ちょうど月末で、準備のためのお金は手元になかった。
「えー。今月はあんたが帰ってすぐにシャワーなんか浴びるから、水道代が赤字なのに」
「仕方ないよ。付き合いがあるんだから、融資してよ」
「もったいないわあ」
 そう言いながらも、母は財布から千円札を三枚取り出している。わたしはわざとうやうやしくお札を受け取り、自分の財布の中に入れた。
「あんた、友達の家に泊まりに行くんでしょ」
「そうだけど?」
「気をつけなさいよ」
 母はいつも、「気をつけなさい」と言う。何をするにしても、本気で心配しているかどうかは別にして、この言葉を欠かさず言うのだ。わたしはへいへいと頷きながら、準備を整えるために近所のスーパーまで出かけた。
 歩いて五分という、素晴らしいほどの近さにあるスーパーは小さく、品揃えも豊富ではなかった。でも、わが家の三食分の食材はいつもここから調達される。必要なものはあるが、余計なものはないスーパーだった。
 わたしが買おうと思っていたのは、新しい歯ブラシと、おみやげ用のお菓子だ。狭山の食べ物の好みは、弁当を覗いていても想像できないので、甘いものから辛いものまで適当に選ぶことにした。嫌だ、と思いながらも準備を楽しんでいる。用意するまでは楽しいのだ。
 ちょうどお菓子を選ぼうとしたとき、同じ中学の佐藤君とばったり会ってしまった。青いTシャツに、黒の制服のズボンを履いていた。しかも、彼の隣には女の子がいる。女の子も、他校の制服を着ていた。
「久しぶり」
 わたしが先に声を掛けると、佐藤君は恥ずかしそうに軽く会釈をした。受験前よりも痩せて、精悍な顔つきになっていた。
「彼女?」
 視線を女の子の方に投げかけると、佐藤君はまた、首だけでひょいと頷いた。女の子の方も、わたしに愛想笑いをした。
「山崎はどうなの?」
 久しぶりに佐藤君の声を聞いた。
「まあ、ぼちぼちかな」
「ふーん……」
 佐藤君とは中学三年の時同じクラスで、席も隣だったので仲も良かった。人の気持ちを把握するのが上手で、学級委員を務めたこともある。でも、あの当時、わたしには彼に可愛い彼女ができるとは想像もつかなかった。彼はどちらかと言えば真面目で、男女交際という言葉から離れた存在だったのだ。
「じゃあね」
 佐藤君は商品を一つも選んでいなかったが、言葉に詰まると、出ていってしまった。女の子とはしっかり手を繋いでいた。しばらく見ないうちに変わったんだなあ、と実感した。
 わたしはどれだけ変化したのだろうか。周りの友達は中学の頃と違い、確実に変わりはじめている。もう、中学の友人のことさえ、高校の友人と同じように、把握することはできなくなっている。わたしだけ、取り残されているような気がした。もう、中学の頃にも戻れない。別に彼氏がほしいわけではない。
 少し、センチメンタルな気分に浸りながら、それとは対称的な、わくわくする遠足のおやつのようなものばかり選んでいた。会計を済ませて、外に出ると、むしっとした空気で、気が滅入る。相当長く中にいたようで、二の腕だけがひんやりとしていた。

 狭山は、この前ユウと一緒に行こうとした本屋のある市に住んでいる。目的は狭山の家に泊まる、ということだったので、わたしは三時頃に家を出た。外は黄白色の強い日差しだった。アスファルトに落ちる濃い影を踏みながら、これは日焼けをするな、と思っていた。
 駅の改札口で、定期券を提示した。止まっている車両に入ると、冷房が効いていて、生き返った心地がする。日の当たらない東側の座席に着き、膝の上に一泊分の小さな荷物を載せた。電車が動いている間、わたしはぼんやりと先日あった三者面談会のことを思い出していた。
 普通の成績を通知され、今後の学習指導を受けた。志望大学を先生に問われ、「無い」と答えているわたしがいた。母が苦笑して、わたしの顔を見ていた。先生は、なるべく早めに決めた方がいいですね、とだけ言い、三者面談は終わった。
「あんた、○○大学じゃなかったの?」
「わかんない」
「ちゃんと決めなさいよ。もう、みんな決めてるんだからね」
「大学行かなきゃいけないのかなあ」
「何馬鹿なこと言ってるの」
「わたし、馬鹿だから」
 母は溜息をついて、駐車場に止めていた車のキーを解除した。ちょうどあの日も、外は黄白色で満たされていたと思う。
「あんたが本当に救いようのない馬鹿だったら、母さんもあんたに期待なんかしないわよ」
「ごめん」
 これ以上、母の言葉を聞きたくなかった。わたしのことを真剣に考えてくれている人は、いない気がした。
 家族と将来のことについて、真剣に話し合ったことはなかった。それ以前に、将来のことなど考える必要が、わたしの生活の中にはなかった。家族や友人と当たり障りなく過ごすことで、わたしの生活は成立していたのだから。でも、もう、わけのわからない「将来」が目の前まで迫ってきているのは薄々感じている。
 みんな、本当に将来のことは決めているのだろうか。ユウや狭山も?
 お泊まりのこととは別の、漠然とした不安でいっぱいだった。頭の隅の方で、左腕を切ってしまえば楽になれるのに、という考えがくすぶっている。不安なときに自分を傷つけると、多少楽になれる。そんなふうに考えている自分が嫌だった。
 考えを巡らしていると、もう目的の駅に着いてしまっていた。たくさんの客に混じって電車から降りた。駅では既に狭山が待っていた。
「リョクちゃん」
 狭山は軽く手を振った。
「こんにちは」
 今は昼間だから、この挨拶の方が正しいはずなのだが、わたしは自分で口に出しておきながら、違和感を覚えた。
「なんか変だね。いつも、『おはよう』としか挨拶しないから」
 狭山がその違和感の正体を言い当てて、わたしは意味もなく笑った。
「では、リョクちゃん、行きましょう」
 赤いワンピースの狭山は、手招きしながらわたしの前を歩き始めた。
 狭山の家は、駅の近くのアパートだった。部屋の間取りは二人暮らし向けの2LDKで、やはり、狭山は母と二人暮らしなんだ、と思った。
「何か食べる?」
 部屋に着くなり、狭山が言った。わたしは玄関で靴を履いたまま、荷物の置き場所を考えているところだった。
「何かって? まだ晩御飯は早いし……」
「ちょっと早かったね」
 狭山は冷蔵庫から麦茶を出していた。
「上がったら? 荷物はソファーの上にでも置いて」
 二つのガラスのコップには、もう麦茶が注がれていた。わたしはそれをちらっと見ながら、靴を脱ぎ、荷物を置いた。
「わたし、お菓子持ってきたんだよ。食べる?」
「うん」
 二人用の小さなテーブルに、持ってきたお菓子を全て載せた。狭山はじっと無表情にお菓子たちを見て、一袋だけ手に取った。それはチョコレートの詰め合わせだった。
「これ食べてもいい?」
「うん、いいよ。好きなの取ってよ」
「ありがと」
 狭山の手でビニール袋は破られた。そして、椅子に座り、麦茶を飲んだ。わたしも、椅子に座った。
「太るから家に甘い物は置いてないんだ、普段は」
「ふーん」
 わたしはポテトチップの袋を開けた。
「狭山は細いのにね」
「いや、うちの母さんは太いよ。将来わたしはあんなふうになる予定だから」
 そう言いながらも、狭山はチョコレートの包みをはがして口の中に放り込んでいた。
「意外だね。狭山、細いし綺麗なのに」
「お世辞でしょ」
「いや、本当」
 本当だった。狭山は細いし背も高い。顔立ちも高い鼻がすっと顔の中央を通っていて、悪くはない。わたしはポテトチップの油で手をべたべたにさせながら、狭山の顔を見ていた。
「何?」
 恥ずかしそうに狭山は視線を逸らした。
「狭山、好きな人いない?」
「何、急に?」
「いないでしょ」
「いない」
「やっぱり?」
「何よ」
「ただ、そんな気がしただけ。狭山は綺麗だけど、オーラがないから」
「オーラ?」
「自分を可愛く見せようとするオーラがないんだよ。大体、学校で可愛い子って、好きな人がいるから」
「ふーん」
 狭山はしばらく黙って、チョコレートの欠片を二つほど食べていたが、急に「それって失礼」と言った。わたしは慌てて謝った。
「別に、謝るほどのことでもないんだけどさ……ちょっとお菓子食べ過ぎたかな」
 狭山はチョコレートの包みを手にとって、ゴミ箱に捨てにいった。わたしは残り少なくなったポテトチップを見て、夕食はちゃんと食べられるだろうか、と不安になった。
「ご飯は六時過ぎから作るつもりだから、それまでなんかビデオでも観てようか」
「ご飯作るの?」
「まあ、簡単なものくらいなら作れるから。ビデオ観る?」
 狭山が炊事できるとは意外だった。わたしはいつも母に任せっきりで、一人では何も作ることができない。ほかに何もすることがなかったので、ビデオを観ることに賛成した。
 そこでまた、わたしは一つの疑問を持った。狭山は一体どんなビデオを観たいのだろう。わたしは彼女のことについては、何も知らないに等しいのだ。毎日学校で会い、昼飯を共に食べ、トイレにまで一緒に行っているというのに、彼女のことは何も分かっていない。その事実が虚しかった。
「これでいい?」
 狭山はあらかじめレンタルビデオ店で、ビデオを借りていたらしい。ビデオラベルには「青い春」と記されてあった。
「それ……」
「何?」
 狭山はにやっと笑った。
「わたしが観たかったやつだ」
「そうだよ。リョクちゃんが観たいって言ってたから」
 狭山の言葉は衝撃的だったが、その衝撃は優しかった。
「覚えてたの?」
「まあ、覚えてたよ」
 狭山はビデオデッキにテープをセットして、小さめのテレビに電源を入れた。
「狭山、気が利くね」
「別に、そんなわけじゃないよ。ただ、わたしもリョクちゃんはどんな映画が好きなのか、気になってたから」
 既にビデオは、本編の前の予告がスタートされていた。
「狭山」
「何?」
「ユウのことだけど」
「……」
「ユウは、狭山のこと、嫌いじゃないんだって。ただね、狭山と付き合いにくいって」
「何でそんなこと急に言うの?」
 抑揚のない狭山の声に驚いて、わたしは彼女の顔を見た。狭山はテレビ画面をじっと見ていた。
「わたし、狭山のこと、誤解してたんだよ。付き合いにくいとか、思いやりがないとか思ってたけど、実際、こうやって一緒にいると、そんな気がしないから。わざわざビデオまで借りてきてくれる狭山が、思いやりがないとは思えないよ」
「失礼だなあ。でも、ビデオ借りてきたくらいで、わたしがどんな人間かも分かるわけないと思うけど」
「ごめん……」
「それで?」
 狭山はわたしのことを一切見ようとしなかった。
「それで。ユウに誤解を与えちゃまずいと思った、わたしは」
「誤解させてるのかなあ」
「うん」
「もう、本編が始まるよ」
 わたしは黙った。
 「青い春」は松田龍平主演の学園青春もので、今までわたしが観てみたかった映画だった。舞台は不良生徒で満たされた男子高校。わたしの通う、ある程度勉強のできる生徒の集う高校とはかけ離れたものだったが、雰囲気に共感を得るものがあった。高校、友情、将来への不安……
 観ている合間合間に、ちらちらと狭山の表情をうかがっていた。狭山は無表情のままだったから、楽しいのかつまらないのか分からなかった。
 ビデオを見終わって、わたしと狭山は同時に溜息をついた。
「面白かった」
 狭山が言った。そのときやっと、「面白かった」のだと分かった。
「わたしも」
「あの挿入歌、ミッシェルガンエレファントだっけ」
「うん」
「結構良かった。解散する前に気付いておけば良かったなあ」
「狭山、音楽好きなの?」
「まあまあ」
 狭山はリモコンでビデオの巻き戻しをしていた。テレビは夕方のニュースを映している。
「じゃ、今からご飯作るから。テレビ観ててもいいし、本読んでてもいいし、適当にしてて」
「うん」
 他人の家で適当にしても良い、というのが一番困ることだった。わたしは仕方なくソファーのそばに積んである本を借りることにした。乱雑に置かれた本のタイトルをざっと見たが、特に興味を引くものはなかった。
 つけっぱなしにしていたテレビを観ると、ニュースでどこかで高校生が殺された、と報道していた。
「狭山」
 キッチンでわたしに背を向けたまま、狭山は「何」と尋ねた。
「何もすることがなくて暇」
「そう言われてもね、手伝ってもらうより自分でやった方が早いからね」
「いや、手伝いたいわけじゃないんだけど」
 狭山は一体何を作っているのだろう? 規則的に包丁で何かを刻む音がしていた。
「話しかけてても、邪魔にならない?」
「いいけど」
 狭山はどうやらスパゲティを作っているらしかった。この前はユウと一緒に蕎麦を食べた。わたしは麺類と縁があるのかもしれない、と馬鹿らしいことを考えていた。
 狭山に聞きたいことは色々とあったはずなのに、彼女の後ろ姿を前にすると、何を言えばいいのかわからなくなってくる。聞きたいことを整理して、優先順位をつけると、やはり、あの噂の真偽が一位になった。
「狭山、神隠しのこと、教えてくれない?」
「しつこいなあ」
「でも、やっぱり気になるんだよ。わたしはこのことを知らなきゃ、ずっと気になる」
「もう」
「どうしても知りたいの」
「……あれは本当だよ」
 電車の通過する音が聞こえた。
「どこまで知っているのか知らないけど、わたしは神隠しに遭ったんだよ」
「嘘?」
「嘘って言うでしょ、それで信じないでしょ。だからわたし、言うのが嫌なんだ」
「ごめん」
「リョクちゃんは謝ってばかりだよね。本気で謝るつもりがないなら、言わない方がいいよ」
 スパゲティはゆで上がったらしい。わたしは椅子に座ったまま、何とも気まずい気持ちでいっぱいだった。
「わたしね、本当に神隠しに遭ったんだよ。でも、誰も信じてくれないって気付いた瞬間、世界からはじき出された気がした。『世界』なんて、大袈裟だけど」
 狭山は湯気の上る麺を皿に盛り、ミートソースを美味しそうにその上に乗せた。
「小さい頃だったから、よくは覚えていないんだ。漠然と、神社みたいな建物があって、静かで、時間の流れが不思議なところだった、と思う。暖かくて素敵なところだった。みんな嘘だって言うから、本当に行ったのかどうかも、分からなくなってくるね。たった一週間いなかっただけで、全部変わるんだよね。親、離婚しちゃうし」
 二皿のスパゲティはテーブルの上に持ってこられた。わたしは広げっぱなしのお菓子を慌てて片づけた。
「わたしが消える前から、もうやばかったらしいんだけど、わたしがいなくなったのが引き金みたいになって。全然知らなかったよ、小さかったし。だから今になって母さんは、『あんたがいなくならなかったら』って言う。でも、それ、おかしいでしょ? 自分の娘が失踪したなら、娘が可哀相だ、と言って離婚は取り消しになるもんじゃないの?」
 狭山は冷蔵庫から、また麦茶を取り出した。棚にしまってあったグラスを取り出し、氷を三つずつ入れた。
「そんなふうに言い訳して、自分のせいじゃないって思い込むのに精一杯だったよ。誰も信じたくないって思うのに精一杯だったよ。周りにはじかれた気持ちだけ残って、誰も信じていないままなのに、また、そのはじき出されたところに戻ろう、と思って。矛盾だらけかな」
 わたしは狭山に何か言いたかった。言葉がいくらでも生まれては消え、上手くまとまらず、頭の中でがやがやと、やかましく響いていた。
「わたしにとって問題なのは、あれが本当だったかどうかじゃなくて、その後だったんだ。人と関わるのが怖くなって、友達が減っていって。人を避け続けてると、人付き合いの仕方が分からなくなってくる」
「狭山……」
 何か言いたい。狭山に何か言いたかった。彼女が淡々とした口調で、自分自身のことを語れば語るだけ、言いたい言葉が募っていく。
「そのせいでユウちゃんと仲良くできないなんて、言い訳したくないんだけど。やっぱりわたしにとって、あの神隠しは欠かせないものなんだよ。直そう直そうと思っているんだけど、ついひねくれたこと言っちゃって。本当のことが、空気読めずに出てきてしまうんだよ。あ」
「何?」
「ごめん、フォーク出してないね。これじゃ食べられない」
 狭山はくるっと背を向けた。しかし、フォークを探すふうでもなく、背中がわずかに上下していた。
「泣いてる?」
「うん。本当は、いちいち後悔してるんだよ。ちゃんとしようって思うんだよ」
「言いたくないこと、言わせたんだね」
「別に……誰かに、真面目に聞いてほしかったことだったから、いい」
「ごめん」
「だから、いいんだよ。黙って聞いてくれているだけで、それだけでいいんだから」
 向き直ったときの狭山の顔は、綺麗だった。あの、最初に学校のトイレでまじまじと見たときの、死にそうな表情ではなかった。
「食べよう」
 狭山はわざと明るい声を出して、わたしにフォークを渡してくれた。
 スパゲティはあの蕎麦よりもはるかに美味しかった。この美味しいスパゲティは、狭山が作ったものなのだ。何とも、不思議な気持ちだった。
 スパゲティを食べ終わり、食器の片づけを手伝っているとき、狭山は急に言った。
「多分、リョクちゃんにとっての『神隠し』はその左腕なんだろうね」
「え?」
 わたしは慌てて自分の左腕の内側が狭山に見られていないのか確認した。狭山は泡の付いたスポンジで皿を洗っている。
「知ってるよ。多分、ユウちゃんも気付いてるよ。自分だけ、誰にもばれていないと思っていたの?」
「うん」
 狭山がこれから何を言いたいのか分からない。食事を終えたばかりの胃が、悪い運動を起こしはじめた。
「それ、間抜けだなあって思わない?」
 わたしはできるだけ落ち着いたふりをして、「間抜けだなあ」と棒読みのように言った。狭山は軽く息をついた。
「あんなにたくさんの傷、隠せるわけないじゃない。でも、リョクちゃんが一生懸命隠そうとするから、気付いていないフリをするんだよ。リョクちゃんが触れてほしくないことに、いちいち触れたくはないんだ」
「じゃあ、何でそんなこと言うの?」
「リョクちゃんが苦しそうだからだよ」
「苦しそう?」
「そう、苦しそう。つらいことがあれば話してくれればいいのに」
 二人分の食器はもう洗い終えたようだ。狭山は蛇口を締めて、椅子に引っかけてあるタオルで手を拭いていた。わたしは狭山と目を合わせて話をする勇気がなかった。
「狭山。わたし、確かに苦しいよ。ユウにも狭山と同じようなことを言われたけど、いきなり人にそんな、自分の心の内なんて言えるわけがないじゃない」
「そりゃそうだけど。でも、わたしはリョクちゃんに言えたんだよ。リョクちゃんになら言えると思ったから」
「わたしは……」
「何」
「言葉がまとまらない」
「いいんだよ、まとめなくても。わたしは聞くから」
「この左腕のことね……本当は、誰かに聞いてほしかった」
 そう言い切るだけで精一杯だった。言葉よりも先に、感情と涙が込み上げてくる。
 わたしは話した。今まで誰にも言えず、自分の中で秘密にしていた自傷のことを。それは断片的で、話したと言うよりも、ただ、言葉を言っただけのようにも思う。でも、狭山は黙って話を聞いてくれていた。ときどき確認していた狭山の顔は無表情のままだったが、その方が、かえって話しやすかった。
「たくさん切ったよ。眠れなくて。明日が来るのも、生きるのも、面倒で、嫌で、つらくて。でも、何でつらいのか確かな理由が分からなくて。切れば切るほど、もっと苦しくなってた」
「誰にだって、限界があるんだよ。限界があるんだから、無理しないで、人に話せばいい」
「話せる人がいなかったんだよ。みんな、表面的で、楽しけりゃいいような関係で、とても話せなかった。そしたら、どんどん心の中が空洞になっていく気がして、それを埋めるために、また切って」
「悪循環だね」
「うん」
 狭山はぼんやりと宙を仰ぎ、口を軽く開いた。何か言おうとして息がその開かれた口からすっと漏れ、また閉ざされた。そして、視線をわたしの方に向けると、再び口を開いた。
「わたしはね、リョクちゃんがこうやって話してくれたことが、リョクちゃんのためになればいいと思う。今すぐリョクちゃんに自傷をやめろとは言えない。リョクちゃんにとっての逃げ場だったんだから、わたしにはそれを奪えないし。でも、わたしに話してくれたことが、良い方向へ、リョクちゃんが望む方向へ行くためのきっかけになればいい」
「狭山」
「リョクちゃん、やっぱり一人はつらいよ。人と関わるから裏切られると思っていたけど、実際そうかもしれないけど、一人はつらいんだよ。だから、リョクちゃんやユウちゃんが友達になってくれたのは、すごく嬉しかった。誰かがいてくれると、居心地がいいよ。リョクちゃんは一人じゃないんだよ。それは忘れないで」
「うん……」
「ほんとにね、気付いたら、一人が寂しくなってた。だから、今日はリョクちゃんを呼んだんだよ。今まで一人は平気な気がしてたんだろうな」
 わたしは自分の涙がこぼれるのを待っていた。もう、我慢する必要はないような気がした。
「リョクちゃん」
「何?」
「ごめん。お風呂の用意するの忘れてた」
 さっきまでとは全く違う話題で、わたしは思わず笑ってしまった。
「いいよ、別に」
「ごめん。シャワー使ってくれる?」
「うん」

 いつもの習慣で、ぬるめのシャワーを浴びた。
 何となく、左腕を見遣ると、傷は相変わらず残っている。今まで隠し続けていたのに、本当はバレバレだったわたしの秘密。決して美しいものではない。
「リョクちゃん、タオル置いておくから」
 風呂場の外で狭山が遠慮しがちに言った。
「狭山」
「何?」
「ありがとう」
「別にいいよ。タオルなかったら困るし」
「いや、そうじゃなくて」
 シャワーの音がうるさいので、わたしは慌てて蛇口を締めた。
「話聞いてくれて嬉しかった。ありがとう」
「うん」
 狭山の足音が遠ざかっていった。再びわたしはシャワーの蛇口を弛めた。
 急に何かが良いようになるとは思えない。まだ、ユウと狭山の関係を含め、友達や学校や将来のことで不安は残っている。でも、今は不思議と心の中の喧噪が、しんと恐ろしいほど静まり返っているのだ。
 窒息しそうだったのに、自分一人で何とかしようとしていた自分がいた。人がいて、話を聞いてくれるだけで、こんなに楽になれる。窒息死しかけた自分が、他人が話を聞くという方法の人工呼吸で蘇生した。カッターナイフや薬ではなく、人から人に施す処置。それは大袈裟な表現ではない。本当に、呼吸を取り戻した気がする。
 心が静かになると、思考もゆっくりとしたスピードに変わる。わたしに、これ以上考えることはできそうになかった。シャワーを止めて、狭山が用意してくれたバスタオルを手に取った。


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