Home : 出さない手紙について
カスタマイズ・ドール
[4] 涙に関する災難

 涙を流す人形をこの目で見ることができれば、俺は泣けるに違いない、と勝手に思い込んでいた。
 テレビ越しの災厄、世界のどこかで流れる血、映画の中の純愛――そんなことで俺は泣けなかった。どこか非現実的で、なだらかにするすると俺の中に入ってくる情報では、涙を流すほど心を動かすことはできないのだ。でも、俺の隣で大粒の涙をこぼしている人がいるのだから、それらは一般的に涙に値するものだ、とは思うのだが。
「君に心はないの?」
 映画を見終わった後、隣に座っていた恋人は涙を拭きながら、俺に言った。俺は一瞬、言葉に詰まった。
「……どうなんだろうね」
「君はどうして泣けないの? 泣かないだけじゃない。何をしたって、いつも同じ表情で、言葉だって優しくない。何考えてるのか分からなくて、こっちの心だけ磨り減っていくんだよ。君は人形みたいでつまんない」
 何となく、彼女の次の言葉が分かっていたので、敢えて止めようとしなかった。俺は黙ったまま、目を腫らして「別れよう」と言う彼女の顔を見据えた。
 その、彼女の言葉に対しても、俺は泣けなかったのだ。確かに彼女のことは好きだった。この事態は悲しいはずだった。俺は体中から涙が集まるのを待つように瞳を閉じ、彼女が去っていく姿を見ようとしなかった。
 何となく、俺自身は病気なんだ、とそのとき思った。すると、長い間抑えていた疲労が全身を満たし、無性に泣きたくなった。
「知ってる? ○○の美術館に、涙を流す人形があるんだって」
 そんなときに、噂好きの友人から人形の話を聞いたとたん、俺の心に金毛碧眼の愛らしい人形が、虹色に光る涙を静かに流す様子が浮かんだ。――人形にだって、涙を流すことができる。きっと波打つ金の髪も、青い瞳も、一目見たとたんに俺を癒してくれるに違いない。そんな妄想に突き動かされて、ずいぶんと遠くまで来てしまった。
それなのに、肝心の人形が美術館にはなかった。これはどういうことか。俺は憤慨し、若い館長に文句を言った。が、彼女の次の返答で俺は何も言えなくなってしまった。
「ごめんなさい。その人形とは、わたしのことなのです」
 美術館の狭い空間で、可愛らしいオルゴールの有線が流れていた。
 目の前の館長だと思っていた、若い女性はやんわりと微笑みながら俺のリアクションをうかがっている。
「からかわないでください」
「本当なんですよ、見てください」
 女はすっと、俺に手を差し出した。薄暗がりでよく見えなかったため、顔を近づけてその手を見る。そして気付いた。
「すみませんでした……」
 俺は素直に謝った。そして、その後に続く言葉が見あたらなかった。
 女の指の関節は、ビー玉のような球体だった。嘘ではなかったようだ。今、目の前に涙を流す人形がいる。しかし、俺は泣けなかった。人形が泣いていなかったからだろうか。
「あの、泣いてもらえませんか」
 想像していた小さい置物のような人形とは全く違うが、涙を流す姿はやはり見てみたい。
「ごめんなさい。泣けません」
 美人とは言えぬその顔は、困ったふうに微苦笑していた。
「ごめんなさい」
 人形はもう一度、声のトーンを落として謝った。人間のような振る舞い方だ。髪も瞳も黒いのだから、このまま黙って市街を歩いていても、目立たず、誰も人形だとは気付かないだろう。
――このような人形を、一体誰が作ったのだろう。俺は、申し訳なさそうに言う人形を目の前にして、考えは別の方へ移っていた。冷静になって考えてみると、こちらの方が驚くべきことなのだ。涙なんて、この人間のような人形の奇跡に比べれば、ほんのおまけのように思えた。現代にいくら進んだ技術があったとしても、何かの魔法でもなければ、起こらない奇跡だ。
「いきなり泣け、なんて、無理なことですよね」
 俺にとって、涙のことはどうでもよくなってしまっていた。人形は悲しそうに、頷いた。
「涙を流すような出来事があればいいのですが。もう、ここには涙を流すようなことがないのです」
 俺ははっとした。それは身近に泣ける出来事のない俺も同じことだ。
「長い間、ここにいて、泣けなくなってしまったのです」
「俺も、泣けないんですよ」
 思わず言ってしまった。人形も、すっと俺の目を見た。
「最初はここに来て、寂しくて泣いていました。人の好奇な目が嫌で、苦しくて泣いていました。でも、もう慣れてしまったとたん、泣けないんです。そうしたら、今のように静かになって、本当の館長さえここを見棄ててしまいました。泣けないということは、わたしの心は麻痺しているのでしょうか」
 人と同じようにものを考え、感じる人形。皆が珍しがり、好奇の眼差しを向けただろう。それは容易に想像できる。彼女はつらかっただろう。
 やがて慣れてしまった人形が泣かなくなり、誰も来なくなってしまった。泣けなくなった人形には、誰も興味を抱かないのだ。こんなに喋り、動けるというのに、なぜ涙が出ないというだけで、このようになるのだろう。俺は、世の中の人たちが何か大切なことを見落としているような気がした。
「……おかしな話ですね。人形に心なんてあるはずないのに、心が麻痺しているか、なんて」
 それでも、人形は笑っていた。可哀想だ。笑顔である必要もないのに、笑顔以外の表情ができないなんて。俺はたまらなくなり、つい、言ってしまった。
「あなたは人形じゃありませんよ」
 女は目を見開いた。
「もう一度、言ってもらえませんか」
 彼女の声は震えていた。
「お願いします」
「人形では、ありませんよ。物事を自分で考えられるのに、心があるのに、それを人形だなんて、俺は言えません。それに……俺の方こそ、人形のようだ、と彼女に言われてしまいました」
 人形の目が急に爛々と、生き物のように輝きはじめた。館内の黄を帯びたライトが瞳を照らす。一瞬、瞳が大きくなったかと思うと、木の床に何か硬いものの落ちる音がした。
 女は屈んで、落ちたものを拾った。
「不思議。嬉しくて涙が出るなんて」
 再び女の目が輝く。その掌には、大きな石英の欠片があった。それは絵に描くような、安直な雫の形をしている。俺はとっさに手を出すと、女は石英を渡した。ひんやりとしていた。石英は、女の目と同じようにライトに照らされ、輝いていた。綺麗だ。
「これがわたしの涙です」
 涙は次から次へと、乾いた音をたてて床に落ちていく。
 しかし、実際に人形が涙を流す姿を見ても、俺は泣けなかった。――なんだか、これは違う。俺のイメージではなかったし、何も伝わってくるものがなかった。
「あなたは人形であることを否定してくれた」
 きらきら瞳を輝かせながら、女は宙を仰いでいた。嬉しそうだということは分かるが、その裏に、何か別のことを考えているような気がした。俺は彼女の真意が分からない。
 笑いながら泣く女が、なぜか、急に恐ろしくなってきた。だんだん俺の手の中の涙が、熱を帯びはじめているような気がする。
「ありがとうございます」
 女が微笑んで俺の顔をしかと見た。その瞬間、手の中の石英が液体の涙へと変わったのが分かった。氷が一瞬で溶けてしまったようだ。指の隙間から、透明な液体が一筋流れた。
「おかげで、呪いを解くことができました」
 ――呪い? そんなもの知らない。何のことなんだ? やはり、これは魔法であったのか。
 手が湿っているのは涙のせいか、それとも冷や汗か。
「今からわたしは人間……」
 女はまどろむように目を閉じ、すうっと息を吸った。その深呼吸で、この空間の空気を多量に吸い込んだように思えた。館内の雰囲気が違う気がする。
 俺の心臓は高鳴りだした。寒気もする。これは、何かおかしい。
「そして、あなたは人形」
「僕が? 何を言ってるんですか」
 目の前の女から、長い間形作られていた笑顔が消えた。人形はこんな顔はしない。もともと、笑顔しかできないのだから。
「涙で濡れた手を見てみなさい」
 俺は言われるがまま、急いで己の手を見た。
「ああ!」
 俺が先ほど見た人形の手とそっくりに、指の関節全てが球体に変わっていた。慌てて服の袖をまくると、腕の関節も大きな球体に変わっていた。
「わたしと代わってください」
 さっと血の気が引いていく。血液が止まることなく、どこかへ流れ去っていく気がした。
「嫌だ! それは困る!」
 しかし、俺には何の抵抗もできず、体温が勢いよく消えていくのを止めることはできなかった。
「あなたは人形です」
 呪文のようなその一言で、激しく鳴っていた心臓が止まった。俺は……騙された。
 俺は悔しくて、女を睨んだつもりだが、きっと笑顔のままだろう。どうしようもないことが情けなく、腹立たしかった。
「あなたは!」
 俺は怒りのあまり、震えそうだった。女の肩をつかむと、人独特の温かさを、何かの――不思議な感覚の膜越しに感じた。感覚が鈍くなっているのだ。先ほどまであったものが、俺にはなく、この女にはある。
 女は白い歯をこぼしながら、俺の腕を払った。
「でも、良かったでしょう? あなたも涙を流せる、きっと」
 満足そうに言うと、俺に背を向けて、美術館を出ていった。女は、これからどこへ行くのだろう。
 オルゴールは相変わらず可愛らしい音色で館内を満たしていた。
 俺の硬い涙が目からこぼれ、頬も伝わずに床へ落下した。情けない。他人事では泣けないというのに、自分の事だと泣けるのか。
 顔を覆っても、冷たい涙は止まらない。でも、この石英が涙とは言えないような気がする。やっぱり俺は、本当に泣けないのだ。
 女は巧妙に人形であることを俺に否定させた。多分あれ――人形であることを否定させる言葉が、人形と人間の入れ替わるスイッチに違いない。彼女も誰かに騙されて、そして人間に戻ることに成功したのだろうか。しかし、俺には言葉を誘導させるような能力などない。
 どうすれば良いだろう。気の遠くなる思いがして、また涙が出そうだったが、ぐっとこらえた。
 人間に戻ることが俺の唯一の希望に変わった。もう、ここにいる必要はない。唯一の希望を抱き、俺も行く宛もなく、美術館を出ていった。

←BACK / NEXT→
■ HOME ■

template : A Moveable Feast