Home : 出さない手紙について
正常のために - an insane attempt -
† †
Suddenly an idea came to him.

 僕の家では、僕が八歳になる時まで猫を飼っていた。
 体はしなやかで黒く、瞳が緑色の美しい猫だった、と記憶している。彼女は俊敏で、よく鼠や雀を捕まえては、半殺しの小動物を母(猫を一番かわいがっていたのは母だった)に見せびらかしていた。
 弱りきった生き物たちは、死ぬ直前まで猫から逃げることをあきらめない。押さえつけていた前足を離すと、ふらふらと動き、猫から遠ざかろうとする。その様子をじっと見入っていた猫は、ぱっと軽やかに飛び上がり、再び生き物を捕らえるのだ。そして、ちらりと母の表情を見る。母は気分の悪そうな顔を毎回していたが、猫はそんな母の気持ちを察することができないようだった。それから何度も同じように生き物をいたぶって、殺し、そのまま食べもせずに部屋に放置する。
 僕は、そんな猫が嫌いだった。弱ったものに対する、らんらんとした目の輝きに嫌悪感を抱いていた。本能に逆らおうとしないことは愚かだと、子供心に感じていたのかもしれない。そう思いながらも、家で飼っていた黒猫の体を撫でたり、一緒に布団に入って眠ったりしたこともある。愛着がゼロだったわけではない。

 猫は僕より年上だった。そして年老いていた。夏の暑い日、彼女(雌猫だった)はいなくなった。
「死ににいったのよ」
 母は、寂しそうに言った。飼い主に、自分が死ぬところを見せたくなくて、こっそり隠れて死ぬのだと、説明してくれた。前に飼っていた猫もそうだったの、と付け足して言った。
 猫はだんだん暑くなると、食欲が落ち、外へ出かけもせずに、家の中で眠ることが多かった。目やにを目の回りにつけたまま、毛並みのつやも落ちていった。確かに、弱っていたのだ。
 僕は、黒猫がどこで死んだのか、探してみることにした。母の言ったことが疑わしかったからだ。当時、小学校から帰るとすぐに帽子を被り、人気のないところを探しに行った。でも、なかなか見つからなかった。猫が本当に見あたらないところで死んでいたからなのか、僕が幼かったせいなのか、それは今となってはわからない。
 猫がいなくなって三週間目に、死体を発見した。友達に僕が猫の死体を探していることを言ったら、友達がたぶん空き家の中で死んでいる猫のことだ、と教えてくれた。その友達は学校帰りに、寄り道をするのが好きで、よく先生に叱られていた。僕は学校帰りに、その友達の一人と一緒に空き家へ向かった。
 誰の世話もなくてぼろぼろになってしまった日本家屋の中にいるのだ、と友人は言う。ガラスの引き戸は割れて、戸をスライドさせることもせず、かつてガラスが張られていたところからそっと侵入した。
 中は薄暗く、ほこりっぽい。そんなことよりも、強い異臭が一番気になった。八歳の僕の経験の中で、この臭いが何であるかは判別できなかった。
「あれだよ」
 友人が鼻をつまみながら、畳の上を指さした。ほこりの積もった畳の上に、黒猫が横たわっていた。蝿が彼女にたかっている。
「かわいそう」
「……」
 僕は、何も言えなかった。
 ゆっくり、怯えるように、猫の死体のもとへ行った。臭気がさらに増す。蝿の羽音がよく聞こえた。死体をちゃんと見なければいけない気がした。でも、腐って、以前の姿とは違うものを、ちゃんと見られる自信がなかった。急に死体を間近で見ることが怖くなって、僕は空き家を飛び出した。
 それから、あの空き家(去年やっと取り壊された)に行くことは二度となかった。

 この記憶は、衝撃的だったのか、八歳の時から八年経った今でも、忘れることができない。
 僕にとって死のイメージとは、死んだ黒猫の腐った臭いと、好奇心と恐怖の混じったじっとりとした夏の空気だった。日常で訃報を聞くたび、無意識にあの思い出が頭の中で再現される。しかし、殺人のニュースに関しては別だった。何の先入観もなく、ただ事実が僕の前を通り過ぎていくだけだ。
 ここ最近の僕は、自覚するほど妙だった。
 その、殺しに関するイメージがないことを不思議に思ったのがきっかけだ。今まではそれが当たり前だった。でも、一度気になるともやもやして、落ち着かなくなる。
 ――自分が体験してみなければならない。
 そういう回答が出るのに、時間はかからなかった。それから僕は、どうすれば「殺す」ことができるのだろうと、一人で悩んでいた。
 まず、何を殺したいのか。別に殺意を抱いている対象はなかった。虫ではなく、できれば同じように血の通った生き物を、自分の手で殺したかった。
 こんなことを、高校の教室で考えている。他の生徒が眠っているような授業ではより真剣に、成績の悪い教科の授業では問題を解きながら、もう一つの意識で考えていた。
 不意に、生徒の雑談が耳に入った。
「死にたいよ」
 テストの答案用紙が返ってきた直後だったので、悲惨なものを見たのだろう。生徒は簡単に死にたいと言う。だったら僕が殺してやるよ。でも、流石に人はまずいと思った。
 こんな正常ではない思考の僕(自分を正常だと言いきる自信は全くない。しかし、本当の正常とは何なのだろう)を、教員が知ったらどうするだろう。できれば追い出してほしい。僕自身では治せないから。

 学校帰りに、公園で大量の猫を見た。あれらは全て野良猫で、近所の住人が餌づけしている。猫はかたまって、餌を食べていた。僕が近寄ると、一斉に散った。
「あ」
 とうとう、ひらめいてしまった。そうだ、猫を殺せばいい。抱きかかえられるほどの、手頃なサイズの生き物だ。餌でおびき寄せて捕まえ、素手で殺そう。殺したって、野良猫なのだから、飼い主が探すこともない。場所は人気のない、この近く野山の麓がいいだろう。今まで考えていたことが瞬時に、視界に入った猫によって一つの計画にまとまった。急に、楽になった。
 猫たちは陰から僕の様子をうかがっていた。僕の思考を読み取ることができているような、怯えた目つきだった。僕は、どんなふうに見えているのだろう。
 でも、次の日、弁当の残りの鮭の切り身を持っていってやると、猫たちは遠巻きに僕を囲み、餌を得る隙を見ていた。今から僕がしようと思っていることには、全く気付いていないようだ。僕も、猫を捕まえる隙を見ていた。わざと屈んで、鮭を持つ手を伸ばし、僕本体と餌を遠ざけた。すると、一匹の茶色い猫が、僕の方へ寄ってきた。そして、餌をかじろうと、口を開いた。僕は鮭を猫に与えた。茶の猫はゆっくりと屈んで、餌を食べはじめた。
 猫は餌しか見ていない。僕はぱっと両手で首のあたりの皮をひっつかんだ。猫も慌てて逃げようと抵抗した。小さな体なのに、すごい力で僕から逃げようとする。でも僕の方がその何倍も強かった。教科書を入れるために使うリュックサックの中に猫を押し込むと、ファスナーを閉じた。黒のリュックの中で猫が大暴れしている。人に気付かれないうちに、早く山の麓へ持っていこう。
 口の中が乾いていた。脈拍も、妙な緊張のせいで上がっている。落ち着け。背中で重い塊が動いている。もうすぐ僕は、僕自身の欲求から解放される。
 木の多く生えた人気のないところに、僕はあらかじめ道具を用意していた。ナイフと金槌をビニール袋に入れて、特徴ある曲がった木の元に置いていた。僕はまず、金槌を取り出す。そして、慎重にファスナーを開いた。僕の拳が入るほど開くと、猫が首をぬっと出した。そして身体を素早くくねらせて、逃げようとした。僕は予想していたが、思っていたよりも動きが早く、慌てて金槌を猫に振るった。当たった感触(思わず目をつぶっていた)がして、耳を覆いたくなるほどの悲鳴がした。僕も猫を飼っていたが、こんな声を今までに聞いたことがない。ぞくぞくと新たな緊張が走る。
 手が震えていたので、しっかり金槌を持ち直すと、猫の後ろ足を狙って、もう一度金槌を振り落とした。手加減はしない。再び、悲鳴がする。これで猫は走れなくなった。現実離れした猫の声で、頭がくらくらする。しっかりするんだ、僕自身に言い聞かせる。
 ――痛いだろう、早く殺してやらなきゃ、僕はもっと非道い人になる。
 僕は茶の猫の上に乗った。猫の顔を見たくないので、背の上に乗るような格好だ。逃げようと、もぞもぞ動く感触が尻から伝わる。今や手だけではなく、全身が震えていた。猫の小さな首に手をかける。もう後戻りはできない。
 ――この首の骨を折る。
 ところが、首の骨はそう簡単に折ることができなかった。生き物は丈夫にできているのだと実感した。失敗するたび、猫が激しく動く。
「ごめん」
 泣きそうになった。早く楽にしてやらなきゃ、僕も楽になれない。僕は一体何のためにこんなことをしているのだろう。当初の殺しの実体験という目標は消えていた。僕は本当に、僕によって動かされているのだろうか。目をつぶって、くたくたの首をひねった。そして、猫はやっと動かなくなった。
 手には汗と張り付いた猫の毛。そして、猫の首の感触が残った。涙が頬を伝った。

←BACK / NEXT→
■ HOME ■

template : A Moveable Feast