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Home : 出さない手紙について
呼吸をとりもどすためのうた
 一、空洞的

 狭山麗子は神隠しに遭ったことがあるらしい。これは有名な噂話だ。
「狭山さんは本当に神隠しに遭ったのかな」
 今から十年前、当時七歳の狭山は夏休みの初日に外出し、そのまま一週間ほど家に帰らなかった。そのころ、狭山の小学校近辺で、児童誘拐未遂の話がいくらかあって、大人たちは不審者に十分注意していたつもりだった。彼女の母親や近所の住人も協力して探し続けたが、神社の賽銭箱の前で彼女のリュックサックが見つかっただけで、本人は見つからなかった。そして一週間後、狭山が何食わぬ顔で神社のベンチに座っているのを近所の人が発見した。
「さあ。でも、本人は未だに誘拐されたとは思っていないらしいよ」
 大人たちは、優しく尋ねた。狭山の状態は一週間前と同じ、健康そのもので、母親の方がすっかりやつれきっていたそうだ。空白の一週間に一体何があったのか、誰もが気になった。
 狭山は神様に会いに行ったのだと言った。本人に嘘をついたつもりはなかった。でも、大人の反応は、眉をひそめるか、笑うかのどちらかだった。結局、彼女の話は全て無視され、誰かに誘拐されたのだろう、ということになった。
 彼女にとって、神に会ったのが真実だった。でも、誰も信じなかった。彼女は、神隠しに遭ったことそのものよりも、その後の出来事──周りの反応で、大きく変わってしまったらしい。
「真実は『藪の中』か。いや、藪なんてないしなぁ」
「何、それ?」
 ユウはふっと笑った。
「いや、知らないなら別にいい」
「そう」
 ユウは笑顔を崩さず、食べかけの弁当を箸でつついた。
 ユウとは、高校で席替えをしたらたまたま近くの席になり、お互い波長が合う気がして、そのまま一緒にいることが多くなった。波長が合うといっても、好きな本や音楽、テレビ番組が同じ、というわけではない。波長が合うというのは、ただ衝突せず当たり障りなく過ごせるパートナー、という意味だ。だからわたしと趣味の違う彼女は高校の授業で習った芥川龍之介の「羅生門」を知っていても、「藪の中」を知らないし、その意味もわかっていない。中学時代の友人なら、趣味も似ていて、共通の話題も多かった。二年も前の話を未練がましくいっても仕方ないが、話題が少なくて、つい無言になりがちな昼食は結構つらい。
 ユウがご飯を食べ終わるのに合わせて、自分も弁当の片づけをする。それはいつも同じで、その後、一緒にトイレに行くのも自然と決まっている二人のルールだ。
「トイレ行く」
 今日はたまたま、わたしが言い出した。別にどちらが先に言っても、それは重要ではない。
「わたしも」
 どちらが先に言い出しても、二人で一緒に行くことに変わりがないからだ。変な感じ。
 なぜかトイレで人が混み合っていて、順番待ちをすることになった。長年、何の改修もされていない公立高校のトイレは臭い。臭いだけではなく、油断をしていたら天井から水漏れした雫が降りかかってきて危険だ。昨日は雨だったので、要注意だ。臭いを我慢しながら天井を眺めていると、背の高い生徒が視界に入った。噂の狭山麗子だ。
 一瞬、彼女と目が合った気がする。薄暗いトイレの中のせいかもしれないが、彼女の目は虚ろに見えた。
「リョクちゃん、空いたよ」
 ユウが後ろで言うので狭山から視線を逸らして、トイレに入った。ちょうど屈もうとしたとき、冷たい雫が頭に落ちた。ついてない。
 手を洗って、髪を整えるふりをしながら、ユウを待っていた。今日は弁当を食べ終わるのも待っていたし、ユウを待つ日なのか。鏡の中のわたしも、狭山と同じような、虚ろな目をしていた。それだけでなく、目の下には何日も眠っていないような、深い隈が張り付いている。
「リョクちゃん寝てるぅ?」
 わたしの気持ちを読み取ったのか、ユウが手を洗いながら言った。ユウは自転車通学で、程良く日焼けして健康的に見える。いや、日焼けした肌が健康的というよりも、彼女の表情が健康的なのだろうか。

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