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疲れただけの話

 電車から降りて、駅を出ようとしていたときのことだ。
構内を、赤い自転車が走っているのが目に入った。常識だが、構内で自転車の乗り入れは禁止だ。わたしはその基本的ルールの違反よりも、鮮烈な車体の赤に気を取られていた。自転車に乗っているのは、若い茶髪の男だ。楽しそうに笑っている。その笑顔が、妙に腹立たしかった。
 不意に、自転車に乗った男がゆっくりとわたしの隣へ自転車のまま近づいて、喋った。
「滝田、見てない?」
 滝田はわたしではない。彼の知り合いの名前なのだろうと、一瞬の思考でそう判断した。しかし、既に自転車に乗った男は馬鹿にするような笑い声をあげて、わたしの隣を過ぎ去っていた。
「知るか。転んで死ね」
 人を馬鹿にするような笑いに対して頭にきて、ぼそりと、呪術的な力を込めた言葉が、わたしの口からこぼれた。思わず右手で、唇に触れる。一体わたしは何を言っているのだ。
 疲れている。
 十数年生きただけで、衣食住以外にこなすことが増えた。他者と付き合い、趣味を持ち、行動範囲を広げていった。だから、生きるためではなく、楽しむためにお金が必要になった。それで、ファミレスで時給七百円のバイトを春休みから続けている。
 高校生だからといって、時給六五〇円とは。真面目にミスもなく、それでいて愛想良くわたしは働いているはずだ。
ただ、溜息をつく。
 駅を出ると、外はオレンジ色に染まっていた。駅前の自転車置き場、中途半端に高いビル、金融業者の看板、信号待ちをする車、乗り捨てられた自転車、何もかも、オレンジ色だった。ありふれたものが、滅多にない美しいものにこの時だけ、変化している。
 透明なオレンジで彩られた光景を見たとたん、電車を降りたときの数倍の疲労が、首に、肩に流れ込む。肉体労働による筋肉痛というよりも、ストレスからくる血行不良だ。こんなに疲れるなら、バイトなど辞めて、高校生をしていればいい。今のわたしには、そういう選択肢があるし、選んでも文句を言われない。
 でも、お金を稼いで使いたい。
 いつになく、疲労する自分に浸りきっていた。なんだかんだ言って、働いて、疲れきる自分を、わたしは好きなのかもしれない。
 駅の入り口で、わたしと同い年くらいの男がフォークギター片手に唄っている。下手だった。音程がとれていないのに、やたらとでかい声が鼓膜を振動させる。何の曲を唄っているのか推定できるかと思ったが、できなかった。多分、知らない曲なのだろう。
「うるさい、音痴め」
 また、だ。わたしは機嫌が悪いのだ。今度は、手で口を押さえることもせず、ただ、足を止め、ぼんやりと無表情に男のギターを弾く手を見ていた。彼は、歌が好きなんだ、彼に罪はない。そう思おうとしても、耳に飛び込む気に入らない音が邪魔をした。
 ポケットの携帯が震え、メールの着信を知らせた。
「帰りに鯖買ってきて」
 母からだった。最近携帯メールを覚えた母は、それが嬉しいのか、ことあるごとにわたしにお使いを頼む。でも、何で鯖なんだよ。今から晩ご飯作るのか? もう、今日は鯖いらないから。これからスーパーに寄って帰るなんて面倒だ。溜息が出る。疲労を中心とした思考が、いくつもだるい文句を生み出す。
 再び、あの赤い自転車が駅の周辺を巡り、構内へ突入しようとしていた。オレンジの中でも、なぜか赤はわたしの目を奪う。先ほどと同じような、男の馬鹿笑いが聞こえた。
「下手くそ!」
 赤い自転車の男は、ギターを弾いている男に対して、事実を叫んだ。ギターとあの下手な歌が止まった。
 わたしは足下に転がっているコーヒーの空き缶を手に取った。軽く振ると、煙草の吸い殻が入っているような音がした。中身が入っていないのを確認すると、自転車の男の頭めがけて、缶を投げた。
 当たる。当たるように投げたのだから、当たる。
 スチール缶はクルクルと回転し、緩やかな放物線を描きながら男の茶髪の頭に吸い寄せられるように、当たった。非常にスローな出来事に見えた。既成作品の光景が、目の前で再現されているような気がした。
 そして、転倒。缶による衝撃で、というより、缶が当たったことで一瞬驚き、バランスを崩してしまったのだ。ガシャンとありきたりな音がして、赤い自転車は男と離ればなれになった。
 一部始終を見ていたわたしの心拍数は上昇する。当たると思っていたが、転倒するとは予想していなかった。しかし、どこか、すっとした気分になった。
 ギターの男は、わたしに感謝を込めて会釈をした。違う、お前のためではない。わたしはただ、疲れているだけだ。
 じきに恨まれて追いかけてくるだろうと予想して、わたしはさっさと逃げ出した。走ると明らかに逃げているように見えるので、あくまで早足だ。ばれませんように。
 わたしは、ありきたりな高校生で、その辺の人と同じような、小心者でしかない。
 スーパーに寄って、母のために鯖を買ってやった。

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