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緑という名の生き人形

 わたしは、町の小さな骨董屋に置かれていた。傷んでしまうから、と店主は言って、いつも、薄暗い店の隅に置かれていた。だから、あまり人に気づかれず、わたしは長い間、売れなかった。

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「この人形を買い取りたい」
 ある日、青年が店主に言った。男の指さした先はわたし。
 ああ、やっとわたしはこの埃いっぱいの店から出られるわ。
 とても、嬉しかった。
 人間と変わらない大きさのわたしを、男は大事そうに抱きかかえ、家まで連れて帰った。
 家は、どんな所だろう。わたしは、新しい生活に夢を膨らませていたが、家の中を見たとたん、期待はできないと思った。アパートの狭い一室は、恐ろしい数の本と、降り積もった埃で足の踏み場もなかった。生活をしている、という雰囲気がない。この家で、どのように食事をし、寝ているのか想像できなかった。
 男は軒先にわたしを大事そうに座らせると、がさがさと本を片づけ、懐から出した一枚の大きな布を床に敷いた。その、白い布の上にわたしを横たわらせた。
「俺は今日から君の主人だ。でも、君は今まで通り振る舞っていればいい」
 なにを言っているのだろう。わたしはただの人形なのに。
「そうだ、君の名前は」
 わたしを作ってくれた人は、わたしのことを緑と呼んでいた。わたしの服が、緑色だからだろう。
「ああ、まだ喋ることはできなかったな」
 思い出したように男は言うと、そっとわたしの肩に手を回し、塗料で塗られた唇を指でなぞった。
「俺は君みたいな魂の入った人形に、命を与えることができるんだ」
 男の青白い顔は、自信に満ちていた。均整のとれた顔の目元に、ほくろがある。その一点が、顔のバランスを崩しているのは惜しいと思った。
 しかし、命を与えるとはどういうことか。
 何の躊躇もなく、男はわたしに口づけをした。
「さあ、喋ってごらん」
 わたしの今まで堅く閉ざされていた唇が、なめらかに開いた。そしてどこからともなく、鈴の音のような声が飛び出してきた。
「ああ!」
 すると、全身に、今までに無い感覚が走ったのがわかった。なんと表現すればいいのか分からない。身をよじらせて、叫びたくなるような、感覚。
「痛いのだろう。命の無い物に無理矢理与えたのだから、仕方がないことなのだ。これは君が一生背負わなければならない痛みだ」
「これが、痛み?」
「そうだ。生きているものは痛みに鈍くなってしまっているから、わからないんだ。お前もじきに慣れるだろう」
 本当に、全身が痛かった。本当に、生き物は、この激しい痛みを背負って生きているのだろうか。慣れれば済むようなものではないと思う。
「さあ、名前を俺に教えてくれ」
「わたしは、緑……」

+ * + * + * +

 わたしは木製だから、一日数回、水を飲むだけで体は動いた。固形の食べ物では、身体の動きをおかしくさせるそうだ。しかし、動くことができても、何をすればいいのか分からないので、一日中、部屋の隅に座っていた。主人は一日中本を読んで、ときどき外へ出掛けていた。
 ああ、これでは、以前の生活と何も変わらないではないか。命があっても、動くことができても、何も知らないのでは、何もできないではないか。わたしは、やっぱり、ただの人形なのだろうか。
 そう思うと、毎日が苦しくて、どうしようもなかった。全身の痛みにも慣れることはできなかった。

+ * + * + * +

「今日は一緒に出掛けようか」
 ある日、主人はわたしの手を取って、近くの広場へ出掛けた。主人の手は、痛みを一瞬忘れるほど、温かかった。これが人間の温度なのだと、自分の冷たい手と比べて、なぜか悲しくなった。
「君は神を信じるか? 今日はね、祭りがあって、ここに神様が降りてきているそうだ」
 広場にはたくさんの夜店が並んでいた。黄色を帯びた電球の光が、人々の笑顔を照らしている。そこら中からおいしそうな食べ物のにおいと、幸せそうな声が聞こえてくる。祭りとは、賑やかなものなのか。それと、神のどこに繋がりがあるのか分からなかった。
「いいえ、わたしは神を信じてはいません」
「そうか。まあ、そうだろうな、君は人形だから」
 人間になれば、神を信じることができるのだろうか。すれ違う人々の心には、信仰心というものがあるのだろうか。わたしには、よく分からない。主人は知っているかもしれない。
「あなたは、神を信じているの?」
 一瞬、間を置いて、主人は笑った。
「どうだろう。ほら、見てみろ。みんな君を見ている。お前の顔は、綺麗だから」
 え、とわたしは周りを見た。本当に、人々はちらちらとわたしを見ながら通り過ぎていく。綺麗なものを見る人の目には、命の無かった頃から慣れている。でも、主人の口から出た、綺麗という言葉には驚いてしまった。
「命があると、お前は人形ではなく、人間に見えるらしいよ」
 主人はすっと、手を差し延べた。
「それで、俺と手を繋げば、恋人に見えるらしい。君は綺麗だから、俺と釣り合うよ」
 その意味が分からず、戸惑うわたしの手を主人は取ると、再び夜店の並ぶ広場を歩きだした。相変わらず、人々の視線は集中する。主人の体温が、わたしの手から腕へ、腕から体中に染み渡っていくような気がした。
 急に静かな所へ出た。目の前に小さな社がある。
「今、神様が降りてきているから、皆、ここで祈っているんだ。君も、何か祈りたいことがあれば祈ってもいい」
「わたしは神を信じてはいないのです」
 でも、わたしには祈りたいことがあった。――誰でもいいから、わたしを人間にしてください。そして、主人のそばから、離れたくない。
「人間に、なることはできませんか?」
 急に、主人の顔はこわばった。
「何を……」
「わたしは、人間になりたいのです。命があっても、わたしは人形です。やっぱり、今でも苦しいのです。だから、痛みに耐えられるような、人間の体が欲しい」
 ぱっと、主人はわたしの手を離した。そして、口元に笑みを作ると、低い声で言った。
「俺のしたことは愚かだったな。非道いことをお前にしてしまったよ」
 温かい指を、そっとわたしの唇に当てた。
「俺は、命を与えることもできれば、奪うこともできる。そして、人形の魂を奪うことも」
 わたしは指を払いのけた。
「やめてください。わたしは、人間のあなたが羨ましいだけです」
「俺も人形だ。人間の身体の人形だ。だから寂しくて、君に命を与えたが、苦しませてしまった。人形は、身体が生身でも、魂は作り物でしかないんだ。上手に生きることはできない。俺も、お前も」
 主人は一瞬悲しそうな顔をして、わたしにキスをした。いや、正しくは、わたしから命を奪った。だんだんと、痛みが退いていく。生きていた間の痛みが、除かれていく。
 そして、わたしの意識が主人の中に溶け込んでいくのもわかる。ちょうど、そう、陽が落ち、すっかり安心して、眠りに落ちていくような感じ。でも、これは強制的な眠り。

+ * + * + * +

 温かい主人の中で、わたしの魂は微睡んでいる。――どうしてあなたは、苦しくても生きているの。この理由さえ分かれば、わたしは眠ることができる。
 ――俺にはどうしても、見つけたい人がいる。俺を作り、魂を与えてくれた人。そして、命を与えてくれた人。そして、もう、命など与えさせないようにする。そういう理由があるから、生きている。
 主人の魂は、素直にそう答えていた。ああ、そうなの。わたしも、生きる理由が見つかっていたのに、眠らなければならないのね。
 少し、悔しかった。

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