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葡萄酒の精

 春の始まりを告げた、淡い色の花は、昨日の大雨のせいもあり、もう散りはじめている。
 やわらかな日差しの昼下がり、花見客のいなくなった小高い丘に一人の男がワインの入った碧い瓶とワイングラス二つを手に、やってきた。足取りは、何かためらっているように、重い。
 丘の真ん中には、まるでその男を待っていたかの様に白いテーブルと白い椅子が二つ置いてあった。色白の男は微かに笑って、テーブルについた。
 男はしばらく足下のくすんだ緑の芝生を見つめていたが、はっと表情に軽い決意を含ませ、素早くグラスをテーブルに置き、ほっと息をついた。――悩んだ末についた溜め息のようにもとれる息だった。ポケットから栓抜きを取り出し、慎重にワインのコルク栓を抜いた。
 血のように赤い液体がグラスに注がれてゆく。今にも溢れそうになるまで男は注ぎ続けた。ぎりぎりの縁まで注いだが、上手いことにワインは一滴も白いテーブルの上に零れることはなかった。
 ワインで満たされたグラスの色は深く、酸化した血のようだった。
 男は二つのグラスに注ぎ終えると、残りのワインは全て芝に与えてしまった。出血したように見える芝生は、しばらくすると全て吸って、アルコールに酔ってしまったようだ。
 その様子を見届けた男は、空のワインの瓶を空いている椅子の上にそろりと置いた。
「出てきておくれ」
 やわらかく、神経質そうな声。ここに来て、初めて男は口を開いた。怪しいことにワインの瓶を相手に話し掛けているのだ。さらに相手のワインの瓶からも、返ってくるはずのない返事が聞こえてくる。
「こんにちは」
 それは硝子のように澄んだ女性の声だった。男は嬉しそうに笑った。
「少し待っていてくださいね」
 瓶はそう言うと、くにゃりと歪みだした。歪んで溶けたガラス瓶は液体のように広がり、一枚の艶やかな黒い布となって、椅子の上に載っていた。
 ――がしゃん。
 瓶の割れる鋭い音が布からきこえた。その後、大気の音まで消えるほど静かになると、衣擦れの音もせずに、布はだんだんとドレスの裾を形作り、真っ白い脚が裾からするすると伸び、そのつま先が地面についた。今度は残りの布がドレスの上部を形作り、白い腕が生え、最後に黒くて長い髪が頭を象って、黒いドレスから頭が出てきた。
 どうやら男は、その奇跡を何度も目撃しているようで、あまり驚いた様子はなかった。
 男が長い黒髪を払いのけてやると、深い碧の目が男の顔をとらえていた。血色の良い唇の端は軽く上がり、ちらりと白い歯が見えた。
「用件は何でしょうか?」
 大人になる寸前の少女は、独特の魅力を放ちながら、椅子に深く腰掛ける。
「用事はないのだけど、いけないかい?」
 少女の顔が曇った。
「それでは困ります」
「じゃあ、一緒にお話でもしようか。それが『用件』でもいいだろう?」
「はい」
 少女は嬉しそうに笑った。
「君もワインを飲めるよね。さっき、この丘に一杯あげてしまったから、このグラスにしか残っていないのだけど」
「ええ、飲みましょう」
 少女は器用にワインを一滴もこぼさずに一口、飲んだ。男も口元に笑みを作って、同じグラスから一口飲んだ。
「あら、そんな恐ろしい指輪をしているの?」
 少女がワインを持つ男の手を指さした。男の中指には黒い髑髏の指輪がはめられていた。
「ああ、亡くなった人がいて」
「そうなの。葬儀は?」
「もう終わったよ」
「――それなのに、まだ指輪を?」
「簡単に晴れやかな気分にはなれない」
 男は髑髏の指輪を慈しむようにそっと撫でた。
「だからまだその喪服で?」
「ああ」
 少女は怪訝そうに男の黒いスーツを見ていた。
「別れなくてはいけないのに、僕にはどうも出来そうにない」
 苦笑しながら男はまたワイングラスに口を付けて一口飲んだ。
「だから君を呼んだのだよ。寂しくなってね」
「……そう」
 人形のような少女は無機質にも見える澄んだ瞳で男を見据えた。視線はそのままで、ワインを一口飲んだ。
 桜の花びらが吹雪のように二人の頭上を舞った。その風に、少女の黒髪も流れる。少女はその髪の流れる先、花の飛んでいった方を眺めた。いや、もっと遠くを眺めていたのかもしれない。
 桜が見えなくなると、少女は再び男に視線を戻した。
「ね、このワインを飲み終わったら、わたしを桜の木の下に埋めてもらえますか?」
「え?」
「いいでしょう? どうせわたしはいなくなってしまうもの」
 男は少し困った顔をして、口を開いた。
「僕は君を家まで持って帰るつもりだったのだけど」
「そんなのだから、いつまでも気分が沈んだままなのよ。ね、いいでしょう? この丘の下の桜の木の下に埋めてください。人に悲しむ時間は必要でしょうけど、わたしになどに頼っていては、あなたは駄目になってしまう」
 少女の熱い眼差しに負けた男は、やけくそになってワインを一気に飲み干した。
「もう、いいよ。桜の木の下でいいんだね?」
 男の顔はほんのり赤く染まっている。
 本当は、そんなにアルコールには強くない。――それなのに、亡くなった人とよく歩いてきたこの丘で、寂しさを紛らわせたかったのだ。
 男は残念そうに空になったグラスを見た。
「これで碧い瓶のワインは最後なんだ……。やがて君は消えて、会えなくなる」
「もったいない?」
 少女は言葉とは反対に、明るい口調で言った。
「もう僕は、ワインには頼らない。まだ元気になれそうにないけどね」
「それはいいことよ。約束、どうか守ってくださいね。あなたのためにも」
 少女はそう言うと、がしゃんという大きな音を残して消えてしまった。白い椅子に残ったのは碧い硝子の欠片。
 男はその欠片をそっと手に取ると、丘の下まで歩いていった。
 桜の木は大きく、それだけ長い間ここで生きてきたのがわかる。花はほとんど散ってしまって、木の根元には淡いピンクの絨毯が敷き詰められている。
 男は感慨深げにその大木を眺めていた。
「――君は、この大きな命に触れてみたかったのか? どうして君がこの木の下がいいのか、僕にはわからない」
 男はそっと欠片に向かって言った。しかし硝子はただ碧いばかりで、優しい声は一切返ってこなかった。
 花びらの絨毯をそっと手でかき分け、穴を掘った。そのまま碧い硝子を穴に入れた。中指にはめた黒い髑髏の指輪も一緒に。土をふんわりとかけ、また桜の花びらをかけて、何もなかったようにした。
「これでいいんだ」
 男はそう言うと、桜の木に背を向けて歩きだした。
 途中、二つのグラスを丘に置き去りにしてきたのを思い出したが、もうどうでもよくなってしまって、家まで帰ってしまった。
 丘の白いテーブルに、透明な影が二つ、残っていた。


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