×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

 
Home : 出さない手紙について
海を忘れた魚

 隣の席の女の子は、病気がちで、よく学校を休んでいた。だから、彼女を見たのは、僕が中学二年生になって、約八十回学校に行ったうちの三十回だ。その三十回のうち、彼女が早退をしてしまったのが十九回。だから今までにまともに話をしたことがない。
 夏休みに入る前に、彼女は病院に入院したらしい。教卓の前に立った先生がそう言っていたのだから、信じるしかない。
 終業式の日、先生は僕たちに小さな折り紙を十枚ずつ渡した。そして左端の席の男の子に、色紙を渡して「折り鶴を作って、色紙に鈴木さんへのお見舞いのメッセージを書きなさい」と言った。
 小さく、面倒臭い、と言う声が聞こえた。
 メッセージ。僕は困った。今まで話をしたこともない人に、どんな言葉を贈ればいいのだろう。
 クラスの子たちも同じで、何を書けばいいのかと困っていた。あまり深く考えもしない者は、早く元気になって学校で会おう、と早々と安易なことを書いていた。しばらくすると、同じような言葉で色紙が埋め尽くされた。僕も、二学期は話をしたい、と書いておいた。
 鶴を折り終わった者からさっさと帰ってしまい、教室には二、三人しか残っていなかった。家に帰っても暇な僕も教室に残り、かごの中に放り込まれた色とりどりの鶴を眺めていた。
 ほかの子は、雑談をしている。
 色紙に目を落としていた先生が、僕に声をかけた。
「すまないけど、これを鈴木さんに直接渡してくれないかな。僕はちょっと予定が詰まっていて、行けそうにないんだ」
 僕は、ちょっと嫌そうな顔をした、らしい。先生は慌てて手を振った。
「いや、別に強制じゃないんだよ。君は鈴木さんの隣の席だから」
 別に、誰でもいいはずだ。ただ、僕が気の弱そうな人間に見えるから、押しつけようとしているのだろう、そう心の中で悪態をついた。
 僕は、愛想笑いをしながら、「いいですよ」と答えた。
「よかった。助かったよ。それじゃあ、これを電車代と鈴木さんのお見舞いに使ってください」
 お金を僕に渡した先生は、本当に感謝しているようだった。生徒にお金を渡す、ということは、先生は僕を信用してくれているのだ。先生の顔を見ていると、卑屈な僕自身が恥ずかしかった。

「母さん、僕、明日病院へお見舞いに行ってくるよ」
 夕食の時、僕は母に言った。やかましい父は、今夜は飲み会で帰りが遅い。
「誰か入院しているの」
「うん。鈴木っていう人」
「鈴木? 誰かしら」
「僕もよく知らないんだ」
 母は怪訝そうに僕の顔を見た。
「知らないのにお見舞いに行くの?」
「うん。先生に、頼まれたんだ」
「そうなの。気をつけて行って来なさい」
 気をつけて、と言ったものの、母は僕がどこへ行こうと、心配はしていないだろう。今は受験生の姉の方ばかり、心配している。
 僕は、二階の部屋で勉強している姉がうらやましかった。一生懸命勉強している限り、母は姉を見捨てないだろう。何もない僕は、気にも留めてくれていない気がしてならなかった。

 病院までは電車で三十分、駅から徒歩で十分かかる。さほど遠いところではなかった。
 海辺の駅に電車が止まり、僕は下車した。ぷんと、海辺独特の臭いが鼻をつく。僕はこの臭いが苦手だった。クラゲに刺されたり、溺れかけたりと、海にいい思い出がないからかもしれない。
 駅前の錆びた看板には病院への簡単な地図が記してあった。僕はそれを頼りに病院を目指した。
 途中の林の中は薄暗く、ひんやりとしていた。夏の木漏れ日が足元に点々と落ちる。やがて白くて大きな建物が見えてきた。ああ、あれが病院か。
 病院は静かで綺麗なところだった。患者が本当にこの中にいるのかと疑ってしまいそうになるくらい、清潔なところだった。受付で女の子の病室を尋ねると、おばさんが愛想良く教えてくれた。
 女の子は白い布団の中で眠っていた。僕は起こしては悪いかなと思い、ベッドの脇に置いてある机の上に、色紙の入った袋と、行きしなに買った小さな花をそっと置いた。そして、そのまま黙って帰ろうとした。彼女が起きていたとしても、会話に困るだろうから、この方が都合が良かった。
「誰?」
 不意に、僕の背後で声がした。しまった、女の子が起きてしまった。
「あ、ごめん。起こしてしまって」
 僕は振り返って、起きあがっている彼女を見た。色白の彼女は、ほっそりとしていて、黒い目がやたらと大きく見えた。
「いいわ、別に。寝てはいなかったもの」
「え、じゃあ、何していたの」
「死んだふり」
 一瞬耳を疑い、彼女の白い顔を伺った。
「冗談よ」
 本当に冗談だろうか、と僕は思ったが、別に聞こうとも思わなかった。
「あの、僕、先生に頼まれてお見舞いに来たんだ。それ、色紙と、折り鶴が入ってるから」
「ありがとう」
 女の子は笑って、花を手に取った。
「これは?」
「ああ、僕が買ったんだ。先生のお金で」
「ありがとう」
 嬉しそうな笑顔が、可愛らしかった。
「それじゃあ」
 僕はこれ以上いる必要もなかったので、帰りたかった。
「ね、何か話をして。昼間は、誰もここを訪ねてくれないから、暇なの」
「え?」
 困りながら、詰まりながら、僕は彼女に話をすることになった。彼女が寂しそうだったから。
 学校のこと、町内のこと、本のこと、どうでもいいこと。一つ一つの話を、彼女は楽しそうに聞いた。見れば見るほど、きれいな顔立ちをしていた。長い睫毛が、まばたきするたびに動く。笑って目を細めるたびに動く。
 なかなか帰るタイミングをつかめず、気づけば夕方になっていた。
 それじゃあ、帰るよと言ったら、彼女はまた来て話してくれと僕に言った。誰も見舞いに来てくれない彼女が可哀想で、僕はどうしても断りきれなかった。

 それから、一週間病院へ通い続けた。この夏休み、部活も家族旅行もない僕は暇だったので、電車代さえあればここへ来るのは苦痛ではなかった。
 彼女は僕の話を聞きたがった。僕は本の話をよくしたが、いつも、感心して話を聞いてくれる。病院にいれば、本を読むくらいしか、する事がないと思っていた。
「読書はしないの?」
「しないわ。本を読んでいると、世界が広くて、悲しくなるもの」
 それが、彼女が本を読まない理由らしい。
 僕のくだらない話が尽きかけると、僕自身のことも彼女に話していた。彼女も病院のことや彼女自身の話もしてくれた。
「わたしはね、どうでもいい子なのよ。クラスの人もわたしの事なんてきっと知らないだろうし、お母さんも、お父さんもわたしの事なんて、昼間は忘れているわ。夕方になって、慌てて思い出して、慌てて病院へ来て、慌ててわたしを慰めるのよ」
 女の子は夕方になると、暗いことをよく言う。彼女は笑顔を見せることもできるが、いつも暗いことばかり考える癖があった。ときどき、笑顔で恐いことを言う彼女のちぐはぐさに僕は慣れることができなかった。
「この色紙にだって、わたしの事なんて何も知らない人が形だけ書いているの。あなたもね。あなたがいつも帰ったあと、色紙を読むの。そして、自分のことを思ってくれている人なんていないと分かると、自分が嫌いになるわ。あんなものをくれるのなら、折り鶴だけでよかったのに」
 夕暮れが、彼女の心をさらに暗くさせた。
「きっとわたしは長生きできないわ。ちょっとした風邪でも、すぐにこじらせてしまうの。それで長く休んでしまって、治って学校に行ったら、気分が悪くなって熱が出るの。身体も、この心も、長生きできないように、創られているのかも」
 僕は、何も言えなかった。だが、勝手に手が動き、机の上に置いてある色紙を手に取っていた。
「僕が燃やしてあげるから、早く元気になって」
「ありがとう」
 女の子は静かに泣いていた。
 出ていく途中、病室の前で女の子の母に会った。
「あなたが、最近ここに訪ねてきてくれているのね。いつもありがとう。あの子、もともと体が弱くて。病気は大したことがなくても、弱気になっているのよ。あまり、気を悪くしないでね」
 母はそっと、女の子には聞こえないように言った。

「海をわたしの所まで持ってきてほしいの」
 病弱な彼女は、次の日僕にこう言った。昨日の夕方のことは忘れているようだった。だから僕も忘れているふりをした。
「どうして」
「夏なのに、まだ一度も海を見ていないの」
 僕は快く引き受け、早速近くの海まで行った。病院から海辺まで、本当に近かった。しかし、病院の周りは林で、窓からは海の色の欠片すら見えなかった。
 海に行ったものの、どうやって大きな海を彼女の所へ持っていこうかと悩んだ。仕方がないので、海辺に転がっている貝殻や硝子を拾って、彼女の所へ持っていった。これで、少しでもあの子が笑顔になって、元気になってくれればと願いながら。
「これは貝殻でしょう?」
 彼女はやんわりと笑って、僕の手に海辺で拾ったものを返した。もうすぐ夕方になるので、僕は残念に思いながら帰った。
 次の日、カメラを手にして再び海へ行った。そしてフィルムが切れるまで海の写真を撮り続けた。
 病院へは行かず、すぐに家に帰り、近所の店でフィルムの現像を依頼した。現像は、明日の昼頃にはできるらしい。
 現像後、さっそく僕は彼女のもとに写真を持っていった。
「青いばかりね」
 また彼女は微笑を浮かべ、僕に写真を全て返してくれた。
 僕はなんだか悔しくなって、写真を千切りながら海へ向かった。写真の青い断片たちはひらひらと風に流されていく。確かにあれは海ではない。
 今度は録音機を使って、二時間、海の音を撮り続けた。カモメの声や、遊んでいる人の声も入ってしまったので、僕は少々気に食わなかった。
 そして、彼女に聞かせるとさらに気に食わない言葉を聞くことになった。
「ノイズばかり」
 またも彼女はにっこりと微笑んで、僕にテープを返してくれた。
 それならば、と思って今度はビデオカメラで海の様子を一時間、撮影し続けた。多分彼女は喜ばないだろう。それはもう分かっている。でも、僕はそうしなくてはいけないような気がした。彼女に本当に元気になってほしかった。
 途中、彼女の母に会った。女の子の母は、僕の母よりもほっそりとしていて、美人だった。
「最近ね、あの子、元気そうに笑うのよ。いつも薄ら笑いしか浮かべなかったのに。きっとあなたのおかげだわ」
「そんなことありません。僕は、何もしていないのです」
 僕は本気でそう思った。まだ、彼女の願いを叶えてやれていない。
「海はこんなに小さいの?」
 僕の予想通り、撮影した海の様子を見て、彼女はふっと笑みを漏らしてそう言った。次はどうしよう、と僕はまた考えを巡らせながら病室を出ていく。
 そして次の日、大きなバケツで海の水をいっぱい汲んで、彼女の所まで持っていった。最初から、海を持ってくるにはこうすれば良かったのだと晴れやかな気持ちになりながら。
「これは塩水でしょう?」
 ああ、また、また無理だった。無理なんだ。もともと、海は海なのだから。やっとそのことに気づいた僕は、ベッドの上で微笑んでいる彼女の手を引っ張って、海まで連れて行くことにした。
「やめて」
 女の子は僕がつかんでいない方の手で、僕の手を剥がそうとしていた。
「どうして?」
「それは……」
 女の子は俯いて、理由を言おうとしなかった。僕はそんな彼女を無視して、手をぐいぐい引っ張って海まで案内した。
 病院から目と鼻の先だというのに、どうして彼女は今までここへ来ようとはしなかったのだろう? 入院しているから? きっと違う。
「海?」
 潮の匂いを不思議そうに嗅ぎながら、あたりを見渡す彼女は可愛らしかった。いいだろ、海は、と僕が言いかけたとき、彼女は泣いていた。
 彼女は海を持ってこいと言ったが、僕が海に彼女を持ってきてしまった。それはいけないことだったのだと今になって後悔する。
「わたしはね、あなたに、ずっと訪ねてきてほしかったの」
 潮風が、彼女の黒髪で遊んでいる。
「海なんて、絶対に持ってこられないから、あなたはずっとわたしのところへ、海の欠片を持って、来てくれると思っていたのよ」
 僕は、ぼんやりと聞いていた。
「でも、もう、あなたがわたしのところへ来る理由はなくなってしまったわ。どうすればいいの。わたしはあなたが好きなのに」
 「好き」という言葉が僕に柔らかく突き刺さった。ああ、そうだったのか。僕は、すすり泣き、上下する彼女の肩にそっと手を置いた。
「理由は、なくなっていないよ。僕は、ずっと君のところを訪ねたいと思うよ」
 彼女の母の言葉は本当だった。僕一人で、女の子が元気になるなら、毎日彼女のもとを訪ねよう。そして、いっぱい話をしよう。話に困れば、素敵な本を読んであげよう。世界は、悲しいものではないのだから。そして、僕自身も彼女と一緒に良い人になりたい。
「僕も君のことが好きかもしれない。そうじゃなきゃ、僕はこうやって君に会いに来るわけないだろう? 君は『どうでもいい子』なわけないんだから」
「……ありがとう」
 彼女は安心しても、泣いていた。

template : A Moveable Feast