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Home : 出さない手紙について
桜鬼

 桜の樹(き)の下には屍体(したい)が埋まっている!
 これは信じていいことなのだよ。何故(なぜ)って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。
「桜の樹(き)の下には」梶井基次郎 より

 三月の末、開花前線は太平洋側から北上し、この地方でももうすぐ桜が咲き始める。南の方では既に桜が咲き、テレビのニュースで春を伝えている。そんなニュースに混じって、桜の花が一つも咲かなかった、という奇妙な出来事も何度か報道されていた。
 一つも咲かなかった、と言うより、蕾(つぼみ)が一つ残らず無くなっていた、と言う方が正しい。桜が咲く前に、誰かが蕾を全てもぎ取ってしまったようなのだ。それも、一カ所ではない。開花前線の北上と同じように、南から北へと小さな事件は移動している。
 たくさんの桜の樹の中から一本だけなので、大して騒がれてはいないが、そのニュースを知った一人の男は、不安を覚えていた。

 満月の夜、その男はふらふらと街を歩いていた。別に何か用事があるというわけではない。
 無理矢理に理由を作るとしようか。
 あまりに静かな夜のために、彼の意識は冴え冴えとした。心を静めようと外を見遣ると、満月が真上にまで昇っている。きんと張りつめた静寂が、月の煌々とした輝きを強調させた。趣を愛でる彼にとって、その光景は堪らなかった。月がそっと彼に囁く、さあ、出ておいでよ、と。男はその誘いに乗り、静寂を破らぬよう、そっと家を出てきたのだ。
 これは後からつけた理由であって、実際は、彼自身に言わせればもっと単純で、ふらっと、ほぼ無意識に夜中に外へ出てきただけなのだ。
 男の年齢は二十歳(はたち)前後。中肉中背で、切れ長の目、薄い唇に標準の高さの鼻という、美形でもなければ醜悪でもない面立ちで、それ以上取り上げるような特徴はない。ただ、夜中に家から出ようと考えるのだから、一般の人が言う、変わり者であることに違いない。

 静けさが男の耳元で騒いでいる。
 砂利道を一歩一歩、進むたび、わずかに音が生まれる。しかしそんな音など、この深夜という大きな静寂にはかき消されてしまう。男は急に不安になった。このまま自分の呼吸音や鼓動も消され、暗闇に溶かされてしまうのではないか、と。
 そんな不安な気持ちで歩みを止め、月を見遣り、両手で耳を覆った。血液が止まることなく、彼の体を巡る。不安なとき、彼は自分の脈を聞こうとする。やや早めの脈が鼓膜に伝わり、しばらくそうしていれば、再び歩みだす気力が湧いた。
 桜並木が街灯の光に照らされている。艶のある桜の枝枝には濃紅の蕾が数え切れぬほどついている。あれらは近いうちに花へと変化するだろう。もう、空気はやわらかいのだから。
 男もその空気のためか、桜の木が好きなためか、心もいくらかやわらかくなっていた。ほっと軽く息を吐(つ)いて、腕時計を見た。時計は午前二時を示していた。満月は、もう真上にはいないが、まだ高い位置にいた。家を出てから、男自身が思っていたよりも時間を消費していた。
 突然、ばきりという、低くて鋭い音がした。静寂を破る、生木の折れる音だ。
 男は驚いて、音のした方を凝視した。街灯の光を逃れた桜の方から、同じような緊張が漂っているのが、わかった。
 暫く男はじっとしていたが、落ち着きを取り戻すと、口を開いた。
「誰かそこにいるのか?」
 返事はない。
 気味が悪い。それでも、男にとっては恐怖よりも好奇心の方が勝っていた。暗闇には、一体何が潜んでいるのだろう。この時刻は、昔から、幽霊や鬼が出てくると言われている。鬼であることを期待しながら、男は大股で闇へと歩み寄った。
 夜目に慣れているせいか、近づくと、正体が何であるか分かった。それは奇妙な老人だった。薄汚れたジャージに包まれた小さな老人は、男を睨んでいた。
「爺さん、こんな夜中に木に登って、何をしているのだ?」
 老人は大きな桜の枝に猿のように腰を下ろしていた。その手には桜の蕾がいくらか握られている。
「あんた、まさか蕾泥棒かい? 最近ニュースで知ったのだが。こんな田舎にも来るのだなあ」
「そうじゃ」
 しゃがれた声で、老人は答えた。自分の正体を知られてしまったからだ。当てずっぽうに言った男の方が驚き、返す言葉がなかった。
 老人は、くくくと笑って慎重に木の幹を伝って下りてきた。
「わしはな、花の命を喰う鬼じゃ」
 老人は見ていろ、と言うように手の中の蕾を男に見せ、口に放り込んだ。真円の目は、蕾を味わうように閉じられ、少し震えていた。いかにも美味しそうに食べるのだ。老人が再び目を開くと、更に蕾を口の中へやった。
「へえ、俺は変人だと言われているが、その俺でさえ、あんたのことは変だと思う。だが、その桜の蕾をこれ以上食べないでくれ。俺はこの桜の花が大好きなのだ。この春、見られなくなってしまうのは嫌だからな」
「それは無理じゃ」
 老人は素っ気なく言うと、再び木によじ登り始めた。
「わしはな、喰おうと決めた桜の蕾を、一つ残らず喰わないと、わしが死んでしまう。全て喰う、というのが約束なのじゃ」
 危なっかしく上ると、さっきとは別の枝に移り、蕾を片っ端から摘み始めた。
「約束? そんなの俺は知らない。やめてくれ。俺はこの桜の花を見たいのだ」
 老人は男を無視し、蕾を摘む手を止めない。蕾が手にいっぱいになると、品もなく口の中に押し込んでいく。このままでは、この桜の樹の蕾も、全て無くなってしまうだろう。
「やめろ!」
 男はたまらなくなって、老人の足を掴み、地面に叩きつけた。手の中の蕾が地面に散る。
「ああ、何て事を!」
 老人は落とされたことよりも、散らばった蕾に気を取られ、慌てふためいている。しわしわの手で、蕾を拾っていく。男はその異様な光景に嫌悪感を覚えた。と、同時に小さな老人を右足で蹴りつけていた。再び小さな蕾たちが手からこぼれ落ちた。
「俺はな、どんな桜が咲かなくなろうと、かまわないのだ! だが、これだけは駄目なんだ、どうしても駄目なんだ! 俺はずっと不安だった。蕾の無くなった桜の話を聞く度、この桜まで蕾が無くなってしまうのじゃないか、と。そうしたら、本当に無くなってしまうのだからなあ! 黙って見過ごすわけにはいかないだろう!」
 更に男は老人を蹴る。老人は痛みを感じないようで、散らばっていく蕾のことばかり気にしていた。
「わしには桜の木の下の死体が見える。特別美しく咲く花の下には、死体が埋まっているのじゃ。わしは、その命を集めて生きているのじゃ」
「あんたには、この桜の下の、死体も見えるのかい?」
 叫びと暴力で、男の感覚は麻痺していた。
「見えるとも。この木の下には、人の死体がある。少女の屍が埋まっておるわ」
 男は驚いたように目を見開いた。そして、開きかけた口元に笑みを浮かべると、その表情のまま、老人の首に両手を回した。地面に散らばった蕾を集めることはできないだろうと悟った老人は、死ぬことも覚悟した。何の抵抗もせず、あっさりと男に絞め殺されてしまった。
 男はほっと息を吐いた。腕時計は午前三時を示していた。たった一時間の出来事だったのだ。
 静寂が、再び戻った。
 男は絞め殺した手で、老人がよじ登っていた桜の木の根元を掘った。爪の間に土が入り、指先が切れ、血が滲んだ。それでも男は無言のまま、素手で掘り続けた。少女の死体を掘りだすまで。
 やがて、感覚のなくなった指に、軟らかい肉が当たった。更に掘り進めると、月光の下(もと)でも白く映える少女の顔が掘りだされた。男はその顔を懐かしそうに眺めると、再び作業にかかり、死に装束の少女を掘りだした。
 掘った穴には老人の死体を埋めた。男は少女を大事そうに抱えたまま、家に連れて帰った。

 彼女は、男の妹だ。五年前に、病気で死んでいる。親戚たちは、それが原因で、男がおかしくなってしまったのだろう、と言っているが、そうではない。それ以前から、男はおかしかったのだ。男は「おかしい」要因を抱えつつも、それが表面に出なかっただけである。
 あの時、少女の遺体をこっそり、桜の木の下に埋めたのだ。犯罪であることは自覚している。しかしある本を読んでから、美しい桜とはどんなものか知りたくてたまらなかった。
 その翌年、見事な桜の花が咲いた。その次の年も、ずっと。

 今、彼の部屋の窓際には、少女の死体が座っている。雪花石膏のような肌が、日に当たる度、白く透ける。桜の根は、美しい彼女の体液を吸い続け、美しい花を咲かせた。今年はもう、咲かないだろう。来年は老人の体液を吸った桜が美しい花を咲かせるかもしれないが、少女の桜よりも美しい気はしなかった。眠るような、おだやかな少女の表情を、男は眺めていた。
 桜の花は、開花して、一週間ほどで散ってしまう。
 残念なことに、死体も桜の花と同じように一週間で、氷が溶けるように形を崩し、消えてしまった。彼女はもう、桜の花の一部だったのだ。男の部屋には、土と桜の花の混じったようなにおいだけが残っていた。
 男は暫く落ち込んでいたが、忙しい毎日に流され、元気なふりをしているうちに、回復していた。それでも、男がおかしいことに、変わりはない。

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