Home : 出さない手紙について
夢を夢だとわかっていて

「手伝ってほしいんだ」
 信号待ちして立ち止まっているわたしに、声をかけてきた。その少年の歳は、十七、八くらいか。
「何?」
「僕は血に飢えているんだ」
 意味が分からなかった。でも、彼は少し可愛かったので、ついていくことにした。
 そして何の特徴もないアパートの一室に招き入れられた。
彼は上着を脱いだ。白いシャツから出ている両腕の筋肉は、自然についたもので美しく、肌は病弱なほどに白かった。短い茶の髪を掻くと、その手でナイフを持った。
「僕を抑えていて。痛くて怖いから」
 少年はそう頼んだのだ。これから何をするのかわかった。
 白いベッドの上に二人で座ると、わたしは両腕を彼の白い体に巻き付けた。自分と同じ温度が腕から伝わってくる。
 彼の体が動いた。彼は自分の腕を切りはじめた。ざくざくざくざく、何度も、切る。彼自身によって、皮膚と、肉と、血管は切られていくだろう。でも、死なないだろう。死ぬつもりのある人間の手伝いはできない。わたしは、しばらく目をつむり、何も見えないようにしていた。
「終わったよ、ありがとう」
 わたしはほっとして、顔を上げ、腕を解いた。少年の左腕は、真っ赤になっていた。血は、わたしたちの座っているベッドのシーツを染めた。彼はふっと自嘲気味に笑って、シーツに左手首を押しつけた。血は、水のように流れ、しみこんでいく。
「僕は死にたくはないんだ。でも、生きているのか、死んでいるのかもわからない。そういうとき、血に飢えてしまうんだ」
 心配そうに見ていたら、抱き寄せてきた。反射的に、その体から離れようと、手を伸ばした。でも彼の手が、わたしの肩に触れたとき、彼の感情が流れ込んできた。
 ――悲しい。
「今日生きたら、明日も生きなきゃいけない。その次の日も、ずっと。どうしたらいい?」
 その気持ちで、わたしの心まで真っ赤に染まりそうで、彼を抱きしめずにはいられなかった。ただ、街をふらふら歩いていて、知り合っただけで、彼の事情なんて何もわからない。でも、彼の形のない悲しみが、身体越しに流れてきて、わたしの心も叫ぶのだ。きっとわたしにも、自分をナイフで傷つけるような部分があるのだ。
「大丈夫よ。きっと、大丈夫だから」
 そんなの嘘だ。自分の目からこぼれる涙は、誰のためのものなのか。
 こんな悪夢のような異常さが、自然。普通は、ナイフを見た時点で怖くなって、少年から逃げ出すだろう。逃げなかったのは、投げやりになっていたから。
 わたしは今、温かくて温かくて、ずっとこのままでいたいと思ってしまっている。
 二人、抱きしめ合って、そのまま疲れて眠っていた。目が覚め、見知らぬ少年に回していた腕をとっさに引っ込めると、さっと熱も引き、寒くなった。何時か気になって、左腕の時計を見ると、夕暮れの時刻を指していた。もう、帰らなくてはいけない。
少年を残して、そっと部屋を出ようとした。
「待って」
 少年はわたしの背中に言った。わたしはあの痛そうな腕を見るのが怖くて、振り返らずにきいた。
「何?」
「携帯持ってる?」
「持ってるけど」
「番号教えて」
 もう、次に会うことはないと勝手に思っていた。だから、何も残すつもりはなかった。でも、彼の言葉を聞いて、自分も、もう一度会いたい、と思っていることに気付いた。熱が完全には、この身体から離れないのだ。
 わたしはバッグからメモを取りだし、携帯電話の番号を記すと、少年に渡した。
「ありがとう。また会ってくれる?」
「ええ」
 少年はわたしに微笑んだ。初めて笑った。その笑顔に血は似合わなかった。
 彼は、血に飢えた、笑顔の似合う少年だった。

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